主日礼拝「喜びの歌をうたいながら」
今日はですね、旧約聖書のお話をしたいと思うんです。あの、ちゃんとイザヤ書の話に戻ってきますので、お付き合い頂ければ幸いです。
旧約聖書というのはですね、全部で三十九の文書で成り立っているんですね。その一つひとつに名前がついているんです。創世記、とか、出エジプト記、とか、そういった名前をみなさんも聞いたことがあると思うんですけれども、それらの文章が三十九個集まって、旧約聖書というのは構成されているんだというわけなんです。
その三十九ある文書は、呼び方は色々とあるんですけれども、四つに分類することが出来るんだ、というんですね。
その四つというのがどういったものかというと、一つがモーセ五書といいます。いつか、どなたかの先生の説教で聞いたことがあるかもしれません。創世記から申命記までの五つの文書、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記。これをモーセ五書と言うんです。ここでなにが書かれているか、というとイスラエルのはじまりが書かれているんです。 この世界、そして人間が生まれ、イスラエルの民のルーツが語られて、そして神さまとイスラエルの民との出会いがここには書かれています。どうして我々イスラエルの民は神さまを信じるのか。それは神さまが、エジプトで奴隷となっていた我々を救い導き出してくださったからなんだよ、ということが書かれているわけです。そしてその神さまと民が出会ったときに交わした約束、十戒をはじめとした神さまとのたくさんの契約が記されているわけです。なので、このモーセ五書を指して律法と呼ぶこともあるんですね。
続いて二つ目が歴史書です。申命記の次のヨシュア記からエステル記までが歴史書と呼ばれている部分になるわけです。これは名前の通りイスラエルの民の歴史が書かれています。エジプトを脱出し四〇年の荒野の旅をへてカナンに民は定住する。そこから士師という指導者たちが現れ活躍した後、いよいよイスラエルも王を立てることになった。先週はその二代目の王であるダビデの油注ぎの箇所であったわけです。そしてサウルから始まり、ダビデ、ソロモンと代々王は続き、イスラエルは国として大きく発展していきます。しかしこの後、王国は北王国と南王国に分裂してしまうんです。そして最後、北王国はアッシリアに、そして南王国は新バビロニアに滅ぼされてしまうわけです。国を失った民たちは、それぞれイスラエルを破った国に捕囚されていきます。イスラエルは捕囚期を迎えるわけです。これで国も滅びイスラエルはおしまいなのか。そうではなかったわけです。神さまは民たちをお見捨てにならなかった。七〇年の捕囚期の後、バビロニアがペルシャに滅ぼされ、イスラエルの民はイスラエルの都であったエルサレムへと帰ってくることができた。そして打ち滅ぼされたエルサレムの神殿をもう一度立て直す。そういった歴史が順番に書かれているのが歴史書であるわけです。
今言ったようにイスラエルの民の歴史は本当に様々なことがありました。その様々なことを経験した民たちの歩みというのは、まさに神さまとの歩みであったわけです。イスラエルの民の歴史というのは、神さまと共に歩み、その神さまを大事にする、また大事にすることが出来なかった歩みであるわけです。
その歴史を踏まえて、言わなければいけないことがあると。それは何かというと、神さまの慈しみ、憐れみ、愛なくしてわたしたちはあり得なかったんだ。そのことを忘れてはならないんだ。ということです。このことを書き記しているのが三つ目の諸書であるわけです。箴言、コヘレトの言葉なんかはそういった神さまの慈しみ、憐れみを忘れずに神さまと歩むための生活規範ですとか、生きる上での大事なことが書かれていたりするわけです。またそれを文学的に表したものが詩編や雅歌であるわけですね。これらは知恵文学と呼ばれたりします。
わたしたちは日々を生きていく中で、さまざまな判断を下すわけです。たくさんの選択を重ねて生きます。それを人は人生と呼ぶ。その人生には大小ありますけれど決断が付きまとう。大きな決断を求められることがある。そのようなときに、なるべく適切な判断をして、正しい選択をするために必要とされるのが知恵であるわけです。その知恵とは何か。神さまを畏れることであるわけです。神さまの御手の内に、自分の人生、そして神の民の人生がある。それを忘れないことが何よりの知恵なんだ、そういったことが書かれているのが、諸書であるわけです。
そして最後の四つめが預言書です。預言というのは、神さまから預かった言葉。これで預言と言います。予め、定められたことを示す言、の予言ではないわけです。もちろんそういった未来のことを示している言葉もありますけれども、基本的にイスラエルの民に対して、神さまはこういっているんだよ、だから神さまと一緒に生きようねと伝えることを預言であって、そういった神さまからの言葉を預かるものを預言者というんです。イスラエルの民の中には、それこそたくさんの預言者が立てられました。その預言者たちの言葉を集めて編集したものが預言書と呼ばれているものなんです。
すこし長くなりましたけれど、旧約聖書というのは、このモーセ五書、歴史書、諸書、預言書の四つで構成されているんだ、という話なんです。
それで、本日お聞きしたイザヤ書というのはどれに入るのか。それは預言書であるわけです。イザヤ書の1章の1節には「アモツの子、イザヤがユダとエルサレムについて見た幻」と書かれています。つまりイザヤ書というのは、預言書であるイザヤという人が、イスラエルの民に対して語った、神さまから預かった言葉を、集めて編集した書物、ということなんです。
イザヤ書は、十七ある預言書の一番初めに来るもので、全部で66章ある非常に長い預言書になっています。この66章を全てアモツの子イザヤの語った預言なのか、というと実は違うのではないか、ということが研究者によって指摘されています。そう言った人たちは、少なくとも三人の時代背景が全く違う預言者の言葉が集められ、イザヤ書は構成されていると考えているんです。それぞれは順番に第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤと呼ばれてます。今日のイザヤ書の51章はその二人目の第二イザヤが語ったと考えられている預言になります。この第二イザヤはバビロン捕囚の時代に生きた人です。
先ほど歴史書についてのお話をしたとき、イスラエルは北と南に分裂してしまい、それぞれが戦いに敗れて滅ぼされてしまったんだということをお話しました。そのうちの南ユダ王国が新バビロニアという国に滅ぼされた時は、指導者や戦争に関わったものたちをはじめ、多くのイスラエルの民が捕えられ、新バビロニアの都であるバビロンへと連行されてしまったわけです。これをバビロン捕囚といいます。その中で今日の預言を語る第二イザヤは活躍した人であるわけです。
バビロニアに連れていかれたイスラエルの民たちは、たくさんの屈辱を味わったんだということが聖書には書かれています。戦争に敗れ、多くのものがバビロンに連れていかれて、そしてバビロニアの監視のもとに生活をさせられていた。当時の人々にとっては、戦争に負けたということは、その敗れた国の民が信じる神さまも負けたということであったわけです。バビロニアはイスラエルの都であるエルサレムを破壊したとき、神さまが住まわれるところである神殿も破壊しました。そして民たちに言ったわけです。お前たちの神はどこにいるのか。もし神がいるなら、お前たちを救ってくれただろう。そういうわけです。そして捕囚された民たちにむけて、ぜひイスラエルの民の歌を聞かせて欲しい、賛美歌がいい。というんですね。それはなんのためかというと侮辱するためです。お前たちが心を込めて歌っているその神さまとやらがいる神殿も、俺たちが破壊してやったぞと。バビロニアの人々は言いたいわけです。そのようにして彼らは、民たちの住むところや神殿を破壊しただけでなく、信仰をも破壊しようとしたわけです。
実は捕囚されたものたちの生活自体は、そこまで大変であったわけではないとされています。ある程度の自由が保障され、働くことも許され、ある程度の財を手にするものまで現れたと考えられています。それは捕囚された先でバビロニア人として生き始めてしまったものたちもいたということです。それはつまり、主なる神さまを捨てる、ということであるわけです。そういった状況にありながら立てられた預言者がこの第二イザヤなんですね。
彼、イザヤは必ず、神さまはイスラエルの民たちをエルサレムへとお返しになる。我々は捕囚から解放されて、必ず元の帰るべきところへ帰ってくることが出来るんだということを繰り返し、繰り返し、イスラエルの民たちに伝えつづけました。立ち帰れ。エジプトの地からカナンへと民を導かれたように、バビロンからエルサレムへと民を導かれる神さまを信じるんだと言ったわけです。51章においてもそれは同じです。救いを神さまが我々に示してくださっているんだ、ということをイザヤはここでも語るわけです。
神さまは捕囚されている民を見捨てたわけではない。なぜなら、捕囚されているものたちも変わらずにわたしの民よと呼びかけてくださっているからだ。見捨てた民を神さまはわたしの民とは呼ばない。それはつまり、イスラエルの民の歴史を導き、守り、約束し契約を結んでくださった神さまは、わたしたちの一人ひとりと共におられるということなんだ。そうイザヤは言うわけです。
そして神さまが今も共におられるということは、神さまの救いや恵みは今も変わらずに約束されているということなんだとイザヤは言います。約束されているということは神さまの救いと恵みは永遠にとだえることがないということだというわけです。神さまの救いや恵みが途絶えないということは、神さまの正義、正しさは失われていないということだ。この神さまの正しさ、裁き、ご決断によってわれわれ民は導かれてきたじゃないか。つまり、神さまはわたしたちに必ず導きを与えくださる。だから神さまに信頼して導きを待つんだ。嘲りや、罵りを畏れてはならない。耳を貸してはならない。バビロニアのものたちが神さまはいないと言ったとしても、ぶれるな。おそれるな。捕囚された先で財を築いて、バビロニアに住むことを決断したものたちが、神さまはいない、だからここに残ると言ったとしても、揺れるな。神さまは必ずエルサレムへの道が開かれる。神さまはわたしたちから永遠に離れることはなく、恵みも離れることはないとイザヤはそのように言うわけですね。
そして9節からは神さまに呼びかけるわけです。「奮い立て、奮い立て、力を纏え、主の御腕よ。」その御腕を振るって救ってください。遠い遠い昔、あなたはわたしたちを救ってくださったではありませんか。伝説の海の怪物ラハブのような、大きくて得体の知れないエジプトを打ち滅ぼしてくださったじゃないですか。そして葦の海の奇跡を起こして、われわれを救ってくれたじゃないですか。どうかその御腕を持ってわたしたちを救ってくださいと、イザヤはいうんですね。
イザヤはですね、確かに我々に道は開かれると、確信を持って民たちに語り掛けます。それは、ずっとわたしたちが読み続けてきた旧約聖書三十九の文書の初めから確かに約束されているものなんだというわけです。世界を光あれと言われ創造されたその時から、人を創られ、アブラムを見出し、サラと共に旅立たせ、その子孫たちをエジプトから救い出し、カナンの地へ導き、そこに神の使いを立て、国を建て、そこに生きるものが例え間違いを犯し神さまの道を外れたとしても、神さまの恵みは絶えることなく確かに我々に注がれている。
だから、わたしたちは必ずエルサレムに戻ることが出来る。葦の海が割れた先に救いの向こう岸が見えたように、必ずその御腕が振るわれた先に主なる神さまとその民の都エルサレムが見える。その時わたしたちは必ずや喜びの歌を歌いながらその門をくぐるだろう。バビロニアの者たちが、歌ってみせろと言ったその神さまへの賛美の歌をうたいながら、確かに神さまはおられるのだとうたいながら我々はその門をくぐるのだ。
この言葉はイザヤによって民たちに語られたわけですが、この言葉を語られた方はもちろん、主なる神さまであるわけです。
神さまはこのように言われます。わたしに信頼し、より頼むものをわたしは必ず救うと約束する。そして必ず裁きを下す。ちょうど今週の祈祷会でこの裁きについて触れました。神さまは裁きという言葉を、罪に対する罰としての裁きという意味だけにはとどまらず、信頼に対しての救いという意味としても使われます。これは良いものだ、これは悪いものだと神さまはご判断されるもの、それを裁きというわけです。
「わたしの民よ、心してわたしに聞け。わたしの国よ、わたしに耳を向けよ。教えはわたしのもとから出る。わたしは瞬く間にわたしの裁きをすべての人の光として輝かす。」
そして神さまはこのイザヤを通して語られた言葉通り、約束通りに神さまの民をエルサレムへと戻されました。そしてそれだけではありません。神さまはわたしたちすべての神の民に約束をしてくださったわけです。神さまに心して耳を傾けるものに、神さまに少しでも聞こうとするものに、すべての人のための光を与えるのだと。そう約束してくださったわけです。
その約束は、御子である主イエス・キリストの誕生によって確かに果たされたということをわたしたちは知っています。今日から始まるアドベントの時は確かに神さまがわたしたちを救ってくださるという約束を守ってくださったということを思い起こす時です。イエスさまによる十字架と復活によって開かれた御国の門を、喜びの歌をうたいながらくぐることが出来るその恵みを確かに思い起こす時です。感謝を持って、すべての人の光としてこの世に来てくださったイエスさまをお迎えしたいと願います。
2025年11月30日礼拝説教
