主日礼拝「主は心によって見る」

サムエル上 16:1〜13、テモテ(一)1:12〜17、マルコ 10:17〜31

 今日お聞きしました、旧約聖書サムエル記上の16章。この16章からダビデが登場するんです。ダビデは聖書に出てくる人物の中でも、よく名前が知られている人の一人に数えられる。そんな人なんです。
 ダビデは農業を営んでいたエッサイという人の家に生まれ、ベツレヘムという村で羊飼いとして生きていたところ、神さまに見出され、サムエルによって油を注がれ、イスラエルの二代目の王として立てられました。そして初代イスラエル王であるサウルに仕え、サウルがペリシテとの戦いによって戦死した後、その後を継いで即位するわけです。その後ダビデはペリシテを打ち破り、エルサレムに都を置いて40年間イスラエルの王として神さまに仕えました。今日の聖書はそのダビデが、サムエルによって油を注がれる場面になります。

 エッサイには八人、息子がいて、ダビデはその八番目。末っ子でした。初登場の今日の16章においては、まだ幼い少年でした。しかしその幼い少年ダビデを、神さまはイスラエルの王として見出し、サムエルを通じて油を注がれようとしていました。なぜそのようなことを主なる神さまはされようとしたのか。それは初代イスラエル王のサウルが神さまに背いてしまったことによるものでした。
 サウルはアマレク人と戦った際、神さまから全てのものを打ち倒すように命じられていたにもかかわらず、サウルは全てを打ち倒すことをせずに肥えた羊や最上の牛、小羊など良いものを自分たちのものにしてしまったんです。この神さまの声に従うことより、よい捧げものを手にすることを選んでしまった行いを、神さま、そして神さまの御命令で油を注いだサムエルは非常に落胆しました。これによって神さまはサウルの下を離れ、さらにサウルはサムエルとも訣別することになってしまったわけです。そして神さまはサウルの次のイスラエル王を立てることを決め、サムエルに新しい王に油を注ぐように命じられたわけなんです。
 しかしサムエルは最初、神さまのこのご命令を拒みました。サウルを退け、別の者を王として立てると神さまが言われたことに非常に心を痛めたとあるんです。つまり、サウルと袂を分かったにもかかわらず、サムエルの願いはサウルを見捨てないでほしいというものであった。しかしその願いは聞き入れられませんでした。1節で神さまはサムエルにこのように語ります。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」。

 この神さまの言葉が示しているのは、神さまはもうすでに新しいことをはじめられているんだということです。神さまはサムエルにこういうわけです。サムエル、わたしは今、新しいことをはじめようとしている。あなたはもうこれまでのことに捕われることなく、わたしが成そうとしている新しいみ業を受け入れて歩むのだ。そう言っているわけです。サムエルはサウルに油を注ぎイスラエルの民にこの者が王であると示し、そしてサウルに預言者として関わり、その歩みを後ろから見つめていました。そのサウルが神さまから退けられる。サムエルはサウルが神さまに見捨てられて欲しくないという思い、そして下手をしたらわたしもイスラエルの民から預言者として失格の烙印を押されるかもしれないという、過去が失われてしまうことを恐れを抱えていました。しかし、それでも神さまは言うのです。わたしが備えた新しい道を行きなさい。例えそれが積み上げた過去を捨てるものであったとしても、困難な道であったとしても、わたしの備える道を歩みなさいと言われるわけです。

 しかしこの道がどれだけ困難であったか。サムエルにとってこのダビデへの油注ぎは命がけのものでした。神さまが退けたとは言っても、現在もサウルはイスラエルの王であるわけです。その中で新しく別の人に油を注いで王として立てる。この行為は、王に対しての反逆であるわけです。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう」とサムエルは神さまに言うのも、これは当然のことであったわけです。
 ばれたら殺されてしまうと訴えるサムエルに対して神さまは一つのアドバイスを送りました。それは神さまにいけにえをささげるためという口実を設けて新しい王のところに行くようにというアドバイスでした。サムエルはイスラエルの民に対しての祭司という働きを担っていました。したがって様々な所へ行き、神さまにいけにえを捧げる儀式を行うことは自然なことであったわけです。それを口実にして、新しい王に油を注ぐようにと神さまは言うんですね。そのとおり、サムエルはベツレヘムに向かったんです。
 ダビデの下に向かうサムエルが不安であったように、迎える側も同じように不安でした。サムエルがベツレヘムに着くと、町の長老たちはサムエルを出迎えましたが、サムエルにこのように聞いたんです。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」。これはサムエルがサウルに対して「主はあなたをイスラエルの王位から退けられた」と言い、訣別したことが今日の一つ前の15章に書かれていることによります。サウルと袂を分かったサムエルを迎えることは、サウルの怒りを買うことになるわけです。しかし、神さまはいけにえをささげて礼拝をするという平和なことのために来たということを既にサムエルにアドバイスをしていました。これによって彼らも安心し、サムエルを迎えたわけです。

 そしてサムエルは、いよいよエッサイの家に行き、いけにえをささげ礼拝をし、エッサイの息子たちの内の誰を神さまが新しい王として立てられるのかを知るために、会食を開いてエッサイと息子たちを招いたわけです。サムエルは最初長男のエリアブに目を留めます。その姿を見てこのエリアブこそ神さまが選ばれた新しい王に違いないとサムエルは思いました。しかし、神さまはこう言われるのです。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」
 サムエルはエッサイの「七人の」息子たちと会いましたが、神さまが「この者が新しい王である」と言われる人はいませんでした。そこでサムエルが「あなたの息子はこれだけですか」と尋ねると、エッサイは「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」と答えました。この末の子こそ、ダビデであるわけです。彼はまだ少年だったため、サムエルとの食卓に着く者の数に入っていなかったんです。しかしダビデが呼ばれ、連れて来られた時、神さまはサムエルに「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」と言われました。大人たちが数に入れていなかった少年であるダビデを、神さまはイスラエルの新しい王として選ばれたわけです。

 神さまはなぜダビデを選ばれたのでしょうか。12節に「彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった」と書かれています。このようにダビデの美しく立派な姿が神さまに選ばれた理由なのでしょうか。しかしそうではないということが七節にあったわけです。サムエルにとっては、見た目の立派さにおいて、長男エリアブが王に相応しいと見えたわけです。しかし神さまは容姿や背の高さに目を向けてはならないと言われました。神さまは外見で人を選ぶことはしない。そのことが「わたしは人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」という言葉に表されているわけです。

 神さまはわたしたちとは違い「目に映ること」によってではなく「心によって見る」んだと、そう神さまは言うんですね。これは例えば、人を外見だけで判断することなく、心を、つまり人の内面を見るんだということを神さまが言っているということではないんです。「心によって見る」と聞くと、なんだかわたしたちにも出来そうなことのように思えます。人を見た目で判断せず、日ごろの言動やふるまいからその人柄を推測し、その人の持っている「心」というものを考える。それはわたしたちでも出来るかもしれません。しかし今日の聖書の言葉はそういったことを言っているわけではないんですね。むしろここで言う「目に映ることを見る」というのが、まさに今言ったようなことを指すわけです。わたしたちが人を見るように、自分の感覚に基づいて、外見だけでなく内面も含めて総合的にその人を判断すること、これを「目に映ることを見る」ことなんだと聖書は言うんです。

 それならば神さまが言われる「心によって見る」とは一体どういうことなのか。それは、神さまご自身のみ心によって人を見るいうことです。つまり神さまは、その御心、ご計画を通して人を見ておられるのだ、ということなんです。
 神さまは神さまのみ心によってダビデをイスラエルの新しい王として選ばれました。それは神さまがダビデの目の美しさ、立派さ、心の正しさ、誠実さ、信仰深さを見て選ばれたのではなく、神さまご自身のみ心に基づいてダビデのことを見、選び、立て、用いられたということなんです。つまりです。それはダビデがどうして神さまに選ばれたのかという問いの答えについての根拠をダビデの中には見出すことは出来ないということです。その根拠、答えは、神さまのみ心にしかないんだということです。「心によって見る」それはわたしたちには出来ない、確かな神さまの御業であり、まなざしであり、導きであるわけなんです。

 この神さまのまなざしは、ダビデにだけ注がれているわけではありません。わたしたち一人ひとりにも同じようにそのまなざしは注がれているんですね。ここにいるわたしたちは、神さまによって選ばれ、信仰を与えられ、この教会に連なるものとされました。まだ洗礼を受けていない人たち、子どもたちも、この教会に導かれて繋がっているということは、神さまがそのまなざしをもってわたしたちを選び、ここに召し出してくださったということなんです。

 そこにわたしたち側の理由はあるのか、という話なんです。この理由をわたしたちから挙げることは不可能なんです。他の人よりも信心深いから、素直で誠実で、他の人に対して優しいから神さまはこの恵みに与らせてくださるのか。清く正しく生きているから、優れているから、神さまはわたしたちを見出してくださったのか。そうではない。自分自身の心を、記憶を見つめてみれば、それがいやでも解るわけです。わたしたちはたくさんの人に迷惑をかけて、傷つけて、時に傷つけられて生きてきました。神さまに選ばれるにふさわしい歩みが出来ているのか。出来ていないわけです。誰一人そんな人はいないわけです。でも、わたしたちは今ここにいるんです。それは何故か。神さまがそうしたいと願ってくださったからに他なりません。神さまがそのように御心によって選んでくださり、導いてくださったということであるわけです。

 ダビデもわたしたちと同じように主なる神さまの御心によって選ばれ、王として立てられました。なぜそのようにされたのか、この時はまだ誰にも分からなかったわけです。しかし、その理由は新約聖書に記されているように、イエスさまによるすべての人間の救いにつながるわけです。神さまは約束に従って、ダビデの子孫からイスラエルに救い主であるイエスさまを送ってくださったわけです。ダビデの血を引く者、それがイエスさまのこの世の父であるヨセフであるわけです。これこそが主なる神さまがまだ幼い少年ダビデを選び、油を注いで王としてお立てになったことの最終的な目的であるわけです。全ての人の罪を贖い、復活と永遠の命という救いにあずからせるため、このご計画の内に神さまはダビデを選ばれました。 次週からアドベントの歩みが始まります。わたしたちが待ち望む、イエスさまの誕生、そしてそのイエスさまの救いのためにダビデが用いられ、立てられたように、わたしたちも同じように神さまによって立てられています。救い主イエス・キリストの誕生をわたしたちの存在すべてを用いてお祝いすることです。そしてその恵みと喜びを一人でも多くの人に伝えるためにわたしたちは神さまによって立てられました。感謝をもって祈りをささげ、わたしたち一人ひとりの働きが祝福されるようにともに祈りを捧げましょう。

2025年11月23日礼拝説教