主日礼拝「神の約束」
創世記 15:1〜18a、ヤコブ 2:14〜16、マルコ 12:18〜27
今日お聞きしました、創世記の15章には「神の約束」という小見出しがついています。イスラエルの民の先祖、信仰の父と呼ばれるアブラハム。今日の箇所ではまだアブラムという名前ですけれども、そのアブラムに神さまが約束をしてくださったんだということが書かれている箇所になんです。
アブラム、後のアブラハムの物語は創世記12章から始まります。12章以降、アブラムが神さまから語りかけられ、故郷を離れて旅立ったこと。神さまの導きによってカナンの地に住むようになったこと。さらに神さまがアブラムに対して、このカナンの地をアブラムとアブラムの子孫たちに与えると約束してくださったといったことがだいたい書かれているわけです。
今日の15章の1節には「これらのことの後で」と書かれているんです。これは12章から始まるアブラムと神さまとの物語、アブラムの信仰の歩みを経てここまできて、そこから新しい話が始まるんだということが示されているわけです。
アブラムは神さまの言葉によって故郷を後にし、神さまが示されるところへと旅をつづけました。その旅の途中でアブラムはたくさんの出来事を重ねてきたわけです。失敗もしましたし、神さまの助けによって戦いに勝利したということも書かれています。そして戦いの勝利によっていと高き神の祭司であったサレムの王メルキゼデクによって祝福も与えられました。これらの信仰の旅によって、神さまと共に歩むアブラムの信仰は深められていったんですね。そして今日の15章で、神様とアブラムの関係はまた一つ深められる、新しい段階へと入っていくわけなんです。
その新しい段階に入ったということを示す言葉が1節の「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」でなんですね。12章から14章までは、神さまがアブラムに語りかけるときには「主はアブラムに言われた」と書かれていました。ですがここでは「主の言葉が臨んだ」という言葉に変わっています。「臨んだ」というのは、実際の出来事や場面において使われる言葉です。それはただ「言った」というよりも、もっと具体的で、もっと強く、質量を持った言葉なんだということなんです。
つまりこの信仰の旅を経て、アブラムにとって神さまのみ言葉がより具体的なものとして受け止められるようになったということであるわけです。より深いところに届くようになった。確かに神さまの言葉は自分に働きかけるものであると信じることが出来るようになった。つまり、アブラムの信仰は神さまによって確かなものとされていったということが示されているんですね。
1節後半でアブラムに臨んだ神さまの言葉はこういったものでした。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。神さまはアブラムに対して「恐れてはならない」と語りかけて、なぜ恐れなくてよいかということを教えられます。なぜ恐れなくてよいのか。それは神さまがアブラムを守ってくださるからなんだというわけです。アブラムを守る盾としてわたしはいると神さまはアブラムに宣言してくださいます。それだけでなく神さまの守りによってアブラムは報われる。神さまはたくさんの恵みと喜びをアブラム、お前に与えよう、そのように言ってくださるわけなんです。
今言ったことは、12章からも何度か神さまはアブラムに対して語ってきました。同じことを何度か神さまはアブラムに宣言されていたのです。しかし今日の箇所では以前になかったこと、新しい展開が描かれています。それは何かというと、アブラムが、神さまが約束してくださったこと、神さまが臨まれた言葉に対して問いを返したことなんです。12章から続くアブラムの物語、今日の15章2節で初めて、アブラムは神さまに対して言葉を発するんです。これは大きなことです。
どういったことをアブラムは神さまに問うたのか、それが2節の言葉になります。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」。
神さまはアブラムに「あなたの受ける報いは非常に大きい」と言いました。その報いとは何か。それは13章に書かれていました。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい。見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう。さあ、この土地を縦横に歩き回るがよい。わたしはそれをあなたに与えるから」。数えきれないほどの子孫が与えられて、この地、見渡す限りのこのカナンの地は、アブラムの子孫たちのものとなる。それが神さまからアブラムに与えられた報いなんです。
しかしそのように神さまは言われたわけですけれども、実際のところアブラムにはまだ一人も子供が与えられていませんでした。故郷を離れ旅立った時アブラムは75歳。そして旅を続けていく中でさらに年を重ねていたわけです。人間の常識ではすでに子どもが与えられることなど既に不可能となっている年齢です。したがってアブラムは神さまに言うわけなんですね。「家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」、「家の僕が跡を継ぐことになっています」、跡取りが生まれなかった家では、僕の一人が遺産を受け継ぐということがあったわけです。そのようにしてアブラムもエリエゼルに家を継がせよう、いや、もう継がせるしかないと考えていた。
このように子どもがおらず僕を跡継ぎとするしかない状況で、神さま、あなたはわたしにどう報いて下さり、何を与えてくださるのでしょうか。そうアブラムは神さまに問いかけているわけです。
この神さまへの問いかけから一つ解ることがあります。それはこの時アブラムは、神さまの約束を信じられなくなってしまっている。神さまのしてくださった約束が果たして守られるのか疑問に思ってしまっているということ、これが解るんです。
アブラムは神さまの約束を受けて旅立ちました。み言葉を信じ、どこにいくのかもわからないままに旅立ち、神さまの導きにすべてを委ねて旅路を進んできました。しかし、神さまの言われていた約束は果たされませんでした。そのわずかな兆しも見えないんですね。次第にアブラムは徐々に神さまへの疑いの心を強めていったわけなんです。そしてついに神さまへの問いかけへと至ってしまった。
わたしたちの信仰生活、人生においても、今日の聖書のアブラムと同じ気持ちになることがあります。神さまを信じているのに、どうしてこんなに毎日がしんどいのか。どうしてこんなに自分は、あの人は愛に欠けた人間なのか、どうして自分は、あの人はいつまでたっても変わらずおんなじことをしているのか。いつまでわたしはこのような状況にいつまでも止まらなければならないのか。神さまは本当にわたしを変えてくださるのか、報いてくださるのか、救ってくださるのか。もしそうだとするなら、それはいつなのか。
アブラムが神さまに向かって投げかけたこの問いというのは、わたしたちの内に秘められている問いでもあります。この問いは、中々人前で出せるものではありません。ましてや神さまに対して口にするということなどもってのほかです。口に出してしまったらそれこそ深い罪悪感に襲われてしまうわけです。疑い迷い、苦しみもだえる。わたしたちの信仰の旅路は順調な道だけではないわけです。山あり谷あり、時に休まなければいけない状況にもなってしまう。
どうしてアブラムはこのような問いを神さまに対して投げかけたのか。なぜアブラムは神さまに問うたのか。アブラムの信仰が薄れてしまったからか、神さまへの信仰よりも疑いが強まったからなのか。そう見えるかもしれません。しかし、そうではないのです。アブラムが神さまに問うた理由。それは、信仰が深まったからです。もし信仰が深まっていないのであれば、疑い、問いを立てることはないでしょう。そこまで深く考えることもせずに、そうだなと日々を過ごすだけでないでしょうか。信じていなければ、叶えられない状況に不安になったり、いら立ったりしないわけです。ある意味で平穏、ある意味でドライな信仰生活を送る。
しかしアブラムはそうではなかった。1節の言葉に臨んだという言葉が出てきました。これはまさに神さまの言葉、神さまの約束が、深くアブラムの内に、重さをもって、重大さをもって受け止められているというわけです。それだけ神さまとアブラムとの関係が深まり、ただなんとなく信じるだけでなく、どうしてなんだろうという問いがうまれ、自分の人生に実体をもって信仰が迫って来ていると言うわけなんです。だから彼はふと立ち止まった。今まで歩みを思い返し、そして意を決して彼は神さまに声をかけたんですね。
ここでひとつ示されていることがあると思います。それはわたしたち一人ひとり、信仰の旅路の中で、神さまが約束してくださった恵みや祝福に疑いや迷いを覚えることがあるわけです。でもそれはダメなことじゃないんです。悪いこと、信仰が薄くなり不信仰になっている、そうではないと言うんです。神さまとの関係がまたひとつ、深められているんだということなんです。その歩みのなかで、わたしたちは神さまに対して向き合って御言葉に聞いていくんです。
そしてその問いはちゃんと、神さまに聞き、祈る。聖書の言葉に耳を傾ける。これが大事なんですね。自分の心の中の言葉だけに耳を傾けて聞くだけだと、自分の中で只々悶々と考えるだけだと、神さまから目を逸らしてしまうことになるわけです。先週カインとアベルのお話にも出て来ました。顔を上げることをせずに、自分の中で迷いや疑いを問い続けてしまうと、最後は罪を自らのこころの内に招いてしまう。罪は戸口で待ち伏せている。
このアブラムの問に対して、神さまはお答えになりました。神さまはアブラムを外に連れ出して「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」そう言われました。わたしたちはアブラムの見た星空を想像することしかできないわけです。実際にアブラムが見た光景には遠く及ばない想像です。しかしこの星空は、わたしたちが想像できる、人間が考えることが出来る、数えることが出来るものをはるかに超越したものであった。そう聖書はいいます。わたしたちの思い悩みや、不安、そういったものをあっさりと消し飛ばしてしまうものであった。このような星空をアブラムは見て圧倒された。
アブラムはこの神さまからの示しによって、それまで抱いていた思い、神さまの約束は果たされるのか、恵みや祝福などありはしないのではないか、わたしの旅路、人生は無駄だったのではないかというこれらの思いが間違っていたということに気づかされたわけです。それは言い換えるなら、神さまのみ言葉、恵みや祝福をこちら側の物差し測ろうとしても、できないことなんだということに気が付いたわけです。いや、もはやしなくていいことなんだ、と気が付いた。
ある先生はこの星空を見た瞬間、アブラムは「こんなはずではなかった」という思いの「こんなはず」という思いを捨てたんだと言います。「アブラムは主を信じた」というのは正にそういうことであるわけです。アブラムは何か自分の中に神さまを信じる、神さまの約束が確かに叶うという根拠を見出して信じたわけではないんですね。むしろ、年老いたからだであるアブラムが子どもを得るなんてことは人間的なところからはまったく無理なわけです。しかし、それでもその出来るわけがない、そんなわけはない、こんなはずじゃなかったを捨て、人間的な常識、考えを捨て、すべてを神さまに委ねることにした。それは、確かに神さまを「信じる」ということです。
今日お読みした個所が、聖書で人が神さまを信じた初めての箇所です。わたしたちの内にある迷い、悩み、疑いを捨てて、神さまが見せてくださるその光景を、目の前に広がる世界を、人生を信じてみよう。わたしたちの言う、信じるを、初めて行った、初めて信じた信仰の父は、このアブラムであった。わたしたちは、このアブラムを信仰の父とすることを神さまから赦されているわけです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」このように神さまが言われた星の一つになることが赦されたわけです。
わたしたちの歩んできた信仰の旅路、それを振り返った時、わたしたちは果たしてこれでよかったのかと思い返すことがあります。これでよかったんだと思えているときは大丈夫でしょう。しかし一度、これでわたしはよかったのか?と思ってしまうと中々そのもやは晴れない。わたしたちは救われたものでありながらしかし、罪のもやによってその歩みに悩み、迷い、ときにその導き手である神さまを疑います。神さまがアブラムに見せられた星の一つでありながらしかし、その光を自らの罪によって消してしまうわけです。
しかし、わたしたちには確かに私たちの想像を超えた、こんなはずを捨てる出来事に出会っています。それがイエスさまであるわけです。ヨハネによる福音書の1章にこのように書かれています。「その光は真の光で、世に来て全ての人を照らすのである。」イエスさまはわたしたちの罪を贖うためにこの世に来て下さり、十字架の上で命を捧げ、三日の後にわたしたちに復活と永遠の命を与える初穂となるために復活してくださったわけです。まさにわたしたちを照らす光としてイエスさまは世に来て下さり、そして今もわたしたちを照らしてくださっています。その光が差し示してくださっている信仰の旅路を、共に歩んでいきたいと願います。
2025年11月9日礼拝説教
