主日礼拝「心の戸をたたくのは」

 創世記 4:1〜10、ヨハネ(一) 3:9〜18、マルコ 7:14〜23

 創世記4章は、カインとアベルという兄弟のお話が描かれています。一つ前の3章には、神さまによって造られた最初の人間であるアダムとエバが神さまに逆らい、食べてはいけないと言われていた善悪の知識の実を食べるという罪によって楽園を追放されるという出来事が書かれていました。罪によって人間は神さまのもとを追われ、荒れ野で生きていかなければならなくなった。それだけでなく人は土を耕し食べ物を得なければいけなくなり、子どもを出産するときに痛みを伴うものとなり、最後には死ななければならないものとなったわけです。
 今日一緒に聞きましたカインとアベルのお話は、この3章の楽園追放のお話の続きになるわけです。3章と今日の4章に書かれている二つのお話には共通点、似たところがあります。それは、人間が罪を犯す、神さまに逆らうということが書かれ、最後は神さまによって追放されてしまうというところです。罪を犯し神さまのもとから追放された人々の間で、また新しい罪が生み出され繰り返されていく。罪は新たな罪を生んでいくんだ。そういったことが書かれているわけです。アダムとエバは食べてはいけないという善悪の知識の実を食べようとして罪を犯しました。それは神さまと同じ存在になろう、わたしたちは神さまと同じ存在になれるんだと思った末の罪でした。これは神さまに対しての罪であるわけです。そして今度のカインとアベルの話では、カインがアベルを殺してしまうという罪が書かれています。ここでは人と人との間で犯される罪が書かれています。神さまに罪を犯し神さまとの関係が壊れてしまった人間たちは、ついには人間同士で罪を犯し殺人にまで至ってしまう。そういった罪の深刻さ、悲惨さ、悲しさが書かれているわけなんです。

 カインはどうして弟であるアベルを殺してしまったのでしょうか。今日の聖書に書かれているお話はこういった話です。
 彼らはアダムとエバから生まれた二人の子ども、兄弟でした。それぞれカインは土を耕す者、アベルは羊を飼う者となりました。ある日カインとアベルが、それぞれの仕事によって手に入れた作物を神さまに捧げました。カインは土の実り、農作物を、そしてアベルは羊の初子を持って来て神さまに捧げたんです。それぞれの捧げものを見て、神さまはアベルとアベルの献げ物に目を留められました。つまり喜んだ。そして「よくやったね」とアベルに声をかけたということです。アベルの捧げものを喜んだ神さまですが、一方でカインとその献げ物には目を留められなかったとあります。つまり神さまはカインの捧げものを喜ばず、カインにねぎらいの言葉をかけなったということです。この事にカインは怒り、アベルを妬み、嫉妬して最後は殺してしまうんです。それを見ておられた神さまはカインをエデンの東に追放した。今日のお話はこういったお話になります。
 なぜ神さまはアベルの捧げものには目を留められ、カインの捧げものには目を留められなかったのでしょうか。この答えは正直なところ、はっきりわかってはいません。例えば新約聖書のヘブライ人の手紙の中に、アベルの方がカインよりも信仰的に勝っていたということが書かれていたり、今日お読みしました新約聖書のヨハネの手紙一には、カインが神さまの目から見て正しい人でなかったために受け入れられなかったということが書かれています。つまり、新約聖書が主張するところによると、正しい信仰をもって生きていなかったゆえ、カインは神さまに受け入れられなかったというわけなんです。
 こういった答えに、ある人は果たしてそれは本当なのだろうかという問いを立てています。それはどうしてかというと、今日お読みした聖書のお話の中に、特別カインの信仰がアベルよりも劣っていたであるとか、捧げものの捧げる以前のアベルが正しく、カインが間違っているということは何も書かれていないと、その人は言うわけです。
 そしてもし何かそういった落ち度、カインが神さまの目に留まらないということに対して思い当たるフシがあるとするなら、心のどこかで神さまの指摘を受け入れたり、アベルを殺してしまうほどの激しい怒りに満たされるということはないのではないかと言うんですね。つまりカインは精一杯、神さまに生きて捧げものをしているつもりでも、何故か神さまが自分を認めて下さらない、受け入れて下さらないという状況にいたというわけです。このようなことは話したあと、ある人はこの今日の聖書の話、カインとアベルのお話というのは、こういったことを言いたいのではないかというわけです。それは、人生においてわたしたちにはわからないことがある。そしてそのわからないにわたしたちは翻弄されていくのだ。とそういうんです。人生にはなぜこういったことになったのかと説明出来ないことが起こります。こういう原因によってこういう結果になった、という因果関係が説明できないことがあるわけです。どうして自分は苦しまなければならないのか。悲しい思いをしなければならないのか。自分が一体何をしたと言うのだろうか。そう言った言葉が思わずもれてしまうような出来事があるわけです。
 そしてそんな状況の中、周りを、他の人を見てみたら、幸せそうな人がいたり、自分よりも良い扱いをされていたり、好かれていたり、ということがあるわけです。自分が苦しいときに楽しそうな人を見てしまうと、その自分の抱えている苦しさはより重くなる。自分と他人を比べてしまうからですね。余談かつ個人的な話ですけれども、最近の人々の心が病みやすくなったのはこの苦しみにぶつかることが多くなったからだと思います。SNSとインターネットの発達によってわたしたちは色々な情報や人と出会うことが出来るようになりましたけれど、それは良い意味では、自分の人生を後押しする仲間や友人や良い情報を得ることが出来るようになったということですけれども、悪い意味では自分よりも良い環境で育ったり成功している人を見ることにもなるわけです。そのようにSNSやインターネットが自分に作用するなら、わたしたちはわたしたちの苦しみを深めることになりますし、ときにその苦しみによる怒りが他人に向くようになってしまうわけです。

 何故自分だけがこのような目に遭わなければならないのか。神さまはすべての人を愛してくれているのではないか。平等とは一体なんなのか。ひょっとして神さまは自分のことは目に留められておられないのではないか、わたしは「そっち側」なのではないか。そういった思いに囚われてしまうことがあるわけです。すべてを神さまの御計画と言ってしまえば楽かもしれない。そのように信仰の事柄として、自分の中で答えを出せるのであればそれは素晴らしいことです。しかし毎回そのように行くかと言ったらそうではないわけですね。神さまを信じて生きるものは、こういった果たしてなぜ神さまはこのような目にわたしを合わせるのか、わたしは心に留められていないのではないかという思いにぶつかることがあるわけです。カインがぶつかったのもまさにこういったことであるわけです。カインは自らの人生の中で、神さまの御計画がわからなくなり、信じられなくなってしまった。
 この説明できない神さまの御心とぶつかったときカインは怒りを覚えました。「カインは激しく怒って顔を伏せた」。説明できない、納得できない、理解できない、ないないづくしの苦しみに直面したときカインは怒ったわけです。そしてアベルを見てその怒りと絶望はさらに深まった。なぜアベルは神さまから目に留められたのに、わたし神さまは目を留めてくださらないのか。アベルとわたし、何が違うのか。カインの怒りはアベルへと向かいます。ねたみ、恨み、殺してしまいたいという気持ちがカインの中に湧き上がったわけです。
 このようなカインに対して神さまは言いました。6節からお読みします。「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない』」。神さまはこのように言っているわけです。わたしはおまえのことを嫌ったり、遠ざけたりしているわけではない。そう言っているんです。カインの献げものが神さまの目に留められなかったということ、それはカインが努力したことがうまくいかず、思い通りにならない不本意な結果に終わったということです。そしてそれが何故そうなったのか。それはわたしたちにはわからないわけです。わたしたちの人生には努力してしたことが実を結ばない、想像していた結果ではなく裏切られるということがあります。その結果を神さまが御計画としてそのようになさることがあるわけです。しかしそのようなことがあってもそれは終わりではないと神さまは言うんです。わたしたちを見捨てたわけでも、嫌いになったわけでも、愛することをおやめになったわけでもないというんです。わたしたちにはわかることがあります。「神さまが、どうしてわたしたちに試練をお与えになるのか、そして同時に、どうしてわたしたちを愛してくださるのか。それは、わたしたちにはわからない。」ということです。

 ですが確かにわかることがわたしたちにはあります。神さまはこう言われます。わからないだらけのわたしたち人間の人生の中で、神さまは顔を上げてわたしを見るんだと言われているんです。どのような人生を歩む時であっても、神さまはわたしたちを見つめていて下さり、言葉を下さり、共に歩もうとしてくださっている。そう言って下さっているんです。しかしカインは怒って顔を伏せてしまったわけです。神さまを見上げることをせずに神さまから背いてしまった。そこからカインの罪が始まってしまうわけですね。顔を伏せて、神さまを見ることを止めてしまったカインの心は、アベルへの憎しみ、殺意、罪によって支配されてしまう。
 神さまはカインに対してこういうわけです。カイン、顔を上げてわたしを見なさい。お前の内にある苦しみ、悲しみ、怒りをわたしに向けなさいと言うんです。なぜ、わたしに目を留めてくださらないのかと問いかけること、それを神さまはわたしたちに求められているわけなんです。それでもカインは神さまに顔を向けることが出来なかった。むしろ逆に自分の苦しみ、悲しみ、怒りを見つめてしまった。そこに罪の力が働くわけです。神さまは言われます。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」。わたしたちが自らの怒り、悲しみ、苦しみに閉じこもってしまったとき、お前の心の戸を叩くものがある。それはお前の罪だ。わたしたちが人生において説明できない困難に直面し、怒りのあまり顔を伏せてしまったとき、罪はわたしたちの心の戸を叩きます。罪の引力に引き付けられ、最後にその扉をわたしたちは開けてしまうわけです。カインは罪の引力に引き寄せられて、最後罪を招きいれてしまいました。そして怒りと嫉妬に身を任せ、カインは弟であるアベルを手にかけてしまうわけです。

 神さまは言われます。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」。わたしたちの心の扉をたたくものが二つあります。ひとつは罪です。
 神さまを見つめることをやめ、祈ることをやめ、御言葉を聞くことをやめ、ただ自分自身の心のうちを見つめてしまうようになると、こう思うようになります。「わたしのことがわかるのは、最終的にわたしだけなのだ」。自分以外の存在は信用することが出来ない。こうなってしまうと罪の独壇場になるわけです。お前のその思いは疑いなく全て正しいぞ。間違っているのはお前ではなく、お前の周りにいる人間たちだ。そういった罪は心の戸を叩くわけです。そのような思い、まさに自己中心的な思いにとらわれてしまったら、罪はわたしたちに罪を犯させます。時に人を傷つけ、自分を傷つけ、神さまを傷つけてしまうわけです。しかし、わたしたちの心の戸をたたくのは罪だけではありません。神さまはわたしたちのこの世界に、罪と死に打ち勝つための救い主を送ってくださったお方がわたしたちの心の戸を叩いてくださるんです。わたしたちの主イエス・キリストがこの世に来て下さり、わたしたちの罪のために十字架にかかり、その命をささげ、三日の後に復活されて罪と死に勝利された。罪に勝利されたイエスさまはわたしたちの戸口の前に立って下さり、罪ではなく、わたしをこころの内に招きなさいと言われます。それはつまり、わたしの十字架を通して、父なる神さまを見るのだと言われているわけです。自分の内にあるやりきれない思い、悲しさ、苦しみ、そういったものではなく、その思いをぶつける先として、問いかける先として、また感謝や祈りを捧げる先として、神さまを見るのだと言ってくださっているということです。
 今日はこの後に讃美歌430番を歌います。とびらの外にイエスさまはおられ待ってくださっているという讃美歌です。共に神さまを見つめ、イエスさまをわたしたちの内に招き入れたい、心の戸を共に開けたいと願います。そのために神さまはわたしたちをこの場所へと招いてくださいました。共に見つめる先に神さまがおられる喜びに、心のうちにイエスさまがいてくださる恵みに感謝をもって祈りを捧げたいと願います。

2025年11月2日礼拝説教