主日説教「人は独りでは生きられない」

創世記 2:4b〜9、15〜25、黙示録 4:1〜11、マルコ 10:2〜12

 今日お聞きしました創世記2章4節後半からは、2つ目の天地創造の物語が語られているんです。創世記は、まずはじめに天地創造の物語が語られている文書なんですけれども、その天地創造の物語というのが実は2つあるわけなんです。1つ目の創造の物語は1章1節から2章3節まで、そして2つ目の創造の物語が今日の2章4節から始まる物語であるわけです。
 この二つの物語は、実はまったく違った内容となっているわけです。その中で最も大きく違う点は人間の創造と動物たちの創造の順序が逆になっているということです。1つ目の創造の物語では、主なる神さまによってこの世界が創造され、世界に秩序が与えられていきます。その後、植物、動物が創造され、最後に人間が誕生するわけです。しかし2つ目の創造の物語は、木や草が生えていない荒れ地のような地に、先ず人間が創造されたとあります。そして主なる神さまが備えて下さったエデンの園に人間を神さまは住わせたと語られているわけです。その後に神さまはエデンの園に人間が食事をするための実がなる木々を生えさせ、そこで人が生きていくことができるようにして下さった。そしてその後に今日お読みした後半部分の18節からの部分で、まず動物たちが、そして人間の女性が創られていくわけなんです。最初に人間が創造され、その人間が生きていくために、植物が出来、また動物たちも、人間よりも後に創られている。この動物たちの名付け親は人間であるわけです。こういった特徴を第2の創造の物語は、持っているわけです。そしてさらに、人間の男女が同時ではなく、まず男が造られ、後から女性が創られたんだと第2の創造の物語では語られます。1つ目の創造の物語では1章27節にありますけれども、人間は神さま御自身にかたどって、男と女に、同時に創造されていると書かれているんです。
 この二つの創造の物語は、それぞれ別の者が書いたのであろうという考えが一般的に支持されています。この2章に書かれている2つ目の創造の物語について、ある人はこの2つ目の創造の物語を書いた人は、ある一つの明確な視点に立って、そこから天地創造の物語を描き出していると指摘します。その視点とはどういう視点かというと、人間を中心とした視点であるわけです。これは別に神さまをないがしろにして人間を中心に創造物語を語るという意味ではなく、この第二の創造の物語は「神さまによって創造されて生かされている人間が、神さまとこの世の他の被造物と、どのような関わりを持って生きているのか」ということに焦点を当てて描かれているんだということなんです。そういう視点に立っているという意味で、最初に人間が創造され、人間が神さまによってエデンの園に置かれ、そこで木々から採れる植物の実によって養われ、さらにそこで動物たちと出会い、そして女性が人間から創られて、男女は夫婦となっていくという物語が語られていくわけなんです。神さまによって創造された人間が、様々な出会いと交わりを体験しながら生きていくということを第二の創造の物語は描いているというわけなんですね。

 この2章からの創造物語を読むにおいて大事な視点となるのは、男性と女性についてです。この第二の創造の物語では、最初に男性であるアダムが創られ、人と呼ばれるわけなんです。このアダムという言葉は、最初の人間の名前を意味する固有名詞ではなく、人を意味する言葉なんです。アダムというのは名前ではなく、人という存在を指しているということなんですね。
 そのアダム、人のパートナーとして神さまは女性が創造します。このあたりの男女の創造の順序の問題は後で触れることになるわけですが、確かにここで言えることは、この2章に書かれている二つ目の創造物語は、神さまはまず初めに男性を創造されたということです。神さまが土の塵に神の息を送りまず創造された人間はアダムであった。初めに神さまが土からアダムを造られたことが人間の創造の御業として語られている。そして、その男アダムが出会う相手として、後にエバと呼ばれるようになる女性が創造されるわけです。この創造物語に書かれていることは、男女の優劣の視点が書かれていると指摘する人もいます。つまり、神は男をつくり、その男のために女を作った。人間をつくったというより男女を創ったということで、それぞれを別のものとして、さらには別の役割を与えていることによって聖書は男女の違いという視点を生み出し、さらにそれを強調してしまっているのではないか、そういう指摘があるわけです。しかし、そうではないわけです。
 18節にこのように書かれています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という神さまのみ言葉があるわけです。この18節の言葉に、今日の聖書箇所の創造物語で語られている神さまの御計画、神さまの思いというものが示されているわけです。神さまは、わたしたちに対してどういった思いでおられるのか。それはこういう思いであるわけです。人は、独りで生きるべきものではないんだと。そして、共に合う助ける者と生きていくべきものなのだ。こういう思いがあるんだと聖書は言うわけなんです。そういった御心が示されているというわけなんです。
 神さまがアダムを思って「人が独りでいるのは良くない」と言います。これは言い換えるならば、人は他の人と出会いと交わり、共に生きていくものなのだといっているわけです。独りでいるというのは他者と関わりを断って、一人で、孤独に、自分自身で世界を造りあげて生きていくということなんですね。そういう生き方は人間にとって良くないのだと神さまは言うわけなんです。ここで思うのは神さまはアダムに向かってアドバイスをするようにして「アダムよ、お前は独りで生きていくことは出来ないものだ。だからお前にパートナーをやろう、名をエバという。仲良くするんだぞ」とはしなかったということです。神さまはアダムがエデンの園で植物から採れる実を食べて、動物たちと交わり生活していくのをご覧になって、そこから言ってしまえば独り言のように「うん、アダムが独りでいるのはよくない」と言ったわけなんです。
 神さまは人間を創造されたお方であるわけです。土の塵に命の息を吹き入れ人間を創造し生かして下さった。その神さまがこのように言ったということは、結論づけられたということは、最終的に神さまは人間を、他の人間と出会い、交わり、共に生きていく存在として、まさにデザインされて創造されたということなんです。神さまにかたどって神さまに似せて造られた人間。その人間が最も相応しく神の似姿として生きるというのは、孤独に、独りの世界に生きていくのではなく、他の人や動物や、植物との交わりに生きてくことなんだというわけです。神さまはそのようにして世界をも創造されているわけです。

 人を、そして世界をそのようなものとして創造された神さまは、共に生きる相手をも造り与えて下さった。アダムを創造した神さまは、さらに「彼に合う、助ける者を造ろう」とそのようにおっしゃって下さったわけなんです。この「彼に合う助ける者」という言葉は、マッチしたという意味ではありません。そういったアダムにふさわしい相手を神さまは創造したというわけではないんです。この合うという言葉には「向かい合う」という意味が込められています。それはつまりアダムとエバは、お互いに向かい合って、それぞれが相手のことを見つめながら、共に生きようと意志しながら、手を取り合って生きていくという、どちらもそういった存在であるわけなんです。ということは「助ける者」というこの言葉も、例えばどちらかが主体となって、もう一方は補助をする。どちらかが前、どちらかが後ろという、そういった関係性を表す言葉ではないわけなんですね。
 つまりです、このアダムとエバを神さまは明らかに対等な存在として創造されているということなんです。その対等な存在として創造されたアダムとエバは、それこそ互いに向かい合って、互いに助け合って生きていく。まさにパートナーなんだと、ヘルパーではなくパートナーとして生きるように、神さまはそのように我々をデザインし、創造し、まさに人が独りでいるのはよくない、だからこのように生きるようにという世界を創造し、その世界に我々を生かしてくださるわけです。

 神さまはこの世に創造された人のために、そういったパートナーを造ろうと言って、そのようにされたわけです。人間を他者との交わりに生きるべき者としてお造りになった神さまは、創造主としての責任を最後までもってくださり、対等な存在として向かい合って共に生きる相手、パートナーをも造り、与えて下さるわけです。この箇所においては、今日の18節のみ言葉「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」というこの言葉は、男女の関係、夫婦の関係という面が強く書かれています。しかしこのみ言葉の奥にある神さまの御心、ご配慮である、互いに助け合い、共に向かい合って生きていくというのは、男の人、女の人、夫婦の関係だけにとどまるものではありません。わたしたち一人ひとり存在すべてがこの言葉に紐づけられている。わたしたちの内に刻まれている。そう言った言葉です。神さまに創造されて生かされているということは、この神さまの思いがわたしたちの存在、細胞のひとつにまで刻み込まれているということなんです。
 わたしたち人間は、ここにいる一人ひとり、よくわかっていることであると思いますけれども、一人で生きていくことは出来ない。誰かと共に助け合っていかないと、誰かと関わりを持っていないと生きていけない存在です。生まれてから死ぬまで一人で生きてきたという人は存在しないわけです。人はその人の父と母という存在がなければ生まれてくることはできません。そして誰かしらの人の手によって育てられ、そして誰かしらと共に生きていくわけです。生きるっていうのは本当に幅の広いものです。家族、友人、ご近所の人、職場の同僚、クラスメイト、お店で出会う人、すれ違う名前を知らない人でさえもそうです。そして何もよりも共に神さまと生きる主の家族。そういった一人ひとりの存在と関わって向かい合って我々は生きているわけです。生かされているわけです。
 わたしたちはそれぞれこれまで生きてきた中で、本当に数え切れないほどの人たちからの助けをもらって、愛されて、交わりを持って生きてきた。それは今日のみ言葉でいうのであれば、様々な人たちとたとえささやかなものであったとしても、気づかないうちにかもしれません、あえて口に出さなかったこともあったでしょう、独りでいるのはよくないと、助けあって、支え合って生きて来たのだとそう思うわけです。もしわたしたちが誰とも交わりを持てなければわたしたちは生きるのはとても困難になってしまうと思います。そして自分が誰のことも助けることが出来ないとしたなら、交わりを持てないとするならば、それも大変に厳しい世界だろうと思います。
 出来ることは限られているわけです。わたしたち一人ひとりには限界があり、思い通りにできないことがたくさんある中で生きているわけです。しかし自分にできることを何とかやろうとすること、そして困っている人や途方に暮れている人がいるとしたなら何とか助けようとすることはとても大事なことだと思います。それが大事であるとわたしたちは思っているわけです。
 これらはどのようにして出来たのか、続いて来たのか、そのように思い願うのか。それは神さまがそのように望まれたからであるわけです。その神さまの創造された最善にわたしたちはいつも導かれて、守られて生かされているわけです。

 昨日は笠岡教会に連なる一人の兄弟の葬儀でした。神さまは兄弟に97年と5か月という長い生涯、独りでいるのはよくないとたくさんの人との出会い、交わり、向かい合って生きる生涯を与えてくださいました。その交わりにわたしたち一人ひとりも入れられて、ともに神さまを賛美し礼拝しながら生きていくことが出来ました。このことは本当に感謝であると思います。そのようにわたしたちを導き、守ってくださった、そしてこれからもそのように導き、守ってくださる、最善の道を歩ませてくださる神さまに、感謝の祈りを捧げたいと思います。