礼拝説教「涙はぬぐわれる」
イザヤ33:17〜22、黙示録7:9〜17、マタイ25:1〜13
今日共にお聞きしました、新約聖書ヨハネの黙示録。このヨハネの黙示録は新約聖書中でも最も理解しにくいものだと言われています。どう難しいのか。このヨハネの黙示録の持つ難しさというのは、なかなか一言で言い表すことの出来ない、そんな難しさがあります。単純に黙示録に書かれている内容を一回読んでみても、わたしたちでは何が書かれていて、どういうことを示しているのか、ちょっと頭で想像することが難しい。そういう難しさもこの文章は持っていますし、このヨハネの黙示録が誰によってどういった目的で書かれたのかということも諸説あって、どれが正しいのか断定することがなかなかに困難であるという難しさもあるんです。
一つ例を挙げると、このヨハネの黙示録は、名前からわかる通りヨハネという人がこの黙示録を書いたんだとされています。ですが、果たして本当にヨハネ一人によってこの黙示録は書かれているのだろうか、という問いが研究者の間であるわけなんです。わたしたちが今読んでいるこのヨハネの黙示録の文章は、日本語に翻訳されたものです。今日の聖書朗読も日本語で聞きました。この翻訳された文書はわたしたちが自然に読むことが出来るように専門家の先生方が話し合って決定したもので、実際はギリシャ語で書かれています。このギリシャ語で読んでみるとどうしても同じ人が書いたと断定するには難しい、そういう箇所がいくつかあるそうです。そういったことからヨハネの黙示録は総じて難しいという評価になるわけです。
そのように難しいとされているヨハネの黙示録ですが、しかしヨハネの黙示録という表題に書かれている黙示録という意味は、その難しさ、難解さを持つ内容とはすこし違った意味合いを持っています。この黙示録という単語の黙示という言葉は、ギリシャ語で「アポカリュプシス」という言葉が使われています。この「アポカリュプシス」という言葉は「隠れているものを明らかにする」。または、「隠されていて、今やすでに、明らかにされたもの」という意味を持つ言葉です。何かの覆いで覆われて、隠されていたにも関わらず、その覆いがとられ、隠れていたものが見えるようになった。そんなニュアンスを持っている言葉なんです。つまりこのヨハネの黙示録の内容を踏まえて話すなら、いままでわたしたちでは理解することの出来なかったことが、神さまの救いが具体的にどういったものなのか、理解できるようになるということなんです。
ヨハネの黙示録の1章1節に「イエス・キリストの黙示」と書かかれてる箇所があります。このヨハネの黙示録というものは、「イエス・キリストについて隠れているものをあらわすものである」と、このヨハネの黙示録を書いた執筆者が言うわけです。言い換えるならイエスさまがわたしたちに与えてくださる救いの御業、救いの御業と聴いても、みなさんはよくわからないと思うかもしれないけれども、このヨハネの黙示録を通してみてみれば、わたしたちに与えられている救いというものがどういったものかわかると思います。そう言っているんです。(正直、それにしては例え、比喩表現、わたしたちの世界では考えられないようなことしか書いてなく、「黙示録は人の理解を超えている」、「黙示録は難しい」、「黙示録はわからない」という人が続出しているんですが…と言いたくなるんですけれども。)どうしてそういった、なんていうんでしょう、例え、比喩表現が多く使われていて、すんなりと読めない内容になっているのか、それは一説によると当時ヨハネの黙示録が書かれた背景が関係しているんだと言われています。
背景を説明するにあたって、簡単なヨハネの黙示録の概略を説明したいと思います。ヨハネの黙示録の著者はヨハネという人で、この人は小アジア、今で言うトルコあたりにある教会の指導者であったという説が有力であるとされています。そしてヨハネの黙示録が書かれた時期はドミティアヌスという人がローマ皇帝であった時代、西暦でいうと95年頃と考えられています。このローマ皇帝ドミティアヌスという人はキリスト教史の中でとても有名な人です。何で有名かというと、キリスト教を激しく弾圧した皇帝として有名なんですね。この黙示録は旧約聖書のダニエル書の後半部分に似ていると言われていて、象徴的な比喩表現を使うことによって、キリスト者への弾圧の厳しさを伝えていると言われています。この黙示録は皇帝ドミティアヌスによって行われた迫害、弾圧にさらされた、迫害下にあるキリスト者たちを支えるために書かれたものであると考えられています。つまり弾圧下にあっても読むことが出来るように、例えばローマを大淫婦と表現するように比喩表現を多く使いつつ、イエスさまによって彼らをはじめわたしたちすべての人にもたらされる救い、イエスさまの再臨までを描いている。それがヨハネの黙示録なんだというわけです。したがって難解な表現が用いられたり、旧約聖書の預言書にある表現が用いられたり、中々に難しいところがあるということなんですね。
ヨハネの黙示録はまず最初に七つの教会の教会に書き送る手紙から始まって、イエスさまの再臨で閉じられています。その中で、今日与えられた箇所というのは、苦しみ、悲しみの中にあるものたちに対してイエスさまが確かにしてくださった約束が書かれている部分になるわけです。ヨハネがそれぞれに手紙を書き送った小アジアの諸教会はたくさんの問題を抱えていました。偽の指導者が教会でまちがった教えを広めている、それぞれの教会、また教会に連なる人々が貧困に苦しみあえいでいる。また迫害の中で、命を落とす殉教といった苦難に耐えながら信仰生活を送っていました。
具体的な話をするなら、皇帝に礼拝を捧げるように迫るローマ帝国による迫害がありました。この当時キリスト者であるとわかり捕らえられたものは、例えば獰猛な獣のエサにされました。そして食べられる様を見せものにしたんですね。闘技場に連れていって猛獣がいるところに放って戦わせるわけです。他にはキリスト者であるとわかったものは広場のたいまつにされた、つまりはりつけにされて燃やされたといったことがあったと言われています。そういった支配と暴力が続いていました。そして外からの圧力や問題だけでなく、教会内部にも問題があったわけです。教会員同士で誹謗中傷をする、ローマ帝国に他の教会員を売ったのではないか、だからあの人はとらえられて殉教したのではないかといって仲違いを起こしたり、あの人はわたしたちのことを売るのではないか、そういう疑心暗鬼から混乱に陥ってしまったり、また迫害をさけるために偶像にささげた肉をあえて食べたり、食べさせたりする者、信仰を捨てて皇帝礼拝を行う者が出てきてしまったり、混乱に乗じて偽の指導者が教会に入り込んで淫らな行いをしたり。そういったたくさんの問題によって信仰を失っていく者が多くいたわけなんです。
この黙示録を書いた小アジアの教会指導者であるヨハネは、今言ったような本当に悲惨な状況にある中で、それでも十字架の死よってわたしたちの罪による犠牲となってくださり、血を流し、命を捧げてくださったイエスさまに心を向けたわけです。そして祈りの中で神さまから与えられた幻を見た。イエスさまが再び来られる再臨の時、今日手紙に書き送ったようなことが起こる。これこそがわたしたちの救いなんだ。つまりわたしたちは救われるのだ。そのように語るわけなんです。今日の聖書箇所ヨハネの黙示録の7章9節からの部分は、苦しみの中に生きる諸教会の人々のすべてが、最後、再臨の時には苦悩と悲しみから解放されて、神さまの祝福に与ることになるんだということが表されています。4章からヨハネの黙示録は天上の礼拝、天の国で行われている礼拝はこういったものであるという天上の礼拝の姿が描かれていて、そのうちのワンシーンが今日の箇所になるわけです。
それはこういった内容になります。あらゆる国の、あらゆる言葉を話すものたちが白い衣を身に纏い、なつめやしの枝をもって、大群衆となって神さまの玉座の前に集まってこのように叫ぶんだと、それは「わたしたちの救いは、玉座に座っておられる父なる神とその神の御子であり、わたしたちのために生贄の子羊として十字架で命を捧げられたイエスさまのものである。」つまり神さまによってわたしたちは救われる。そういうんだと。そして神さまを囲む天使たちが「確かにその通りである、すべての栄光が神さまにある」そう言って礼拝したのちに、玉座のそばにいる長老の一人、これは五章九節にある二十四人の長老のうちの一人になります、その一人の長老とヨハネのやり取りが行われるわけです。この白い衣となつめやしをもった大群衆は、一体どこからやって来た何者なのか、ヨハネお前は知っているかと長老が聞き、それに対してヨハネがそれはあなた方がご存知ではないですか、と返し、長老がそのとおりと、わたしたちは彼らを知っている。彼らは大きな苦難の中にいた者で、イエスさまの血によって、衣を白くされたものたちだというわけです。そして長老は続けます。イエスさまによって白くされた、イエスさまを信じ、罪許されたものたちは、最後天の国で神さまに仕えるものとなるんだと。神さまはこのもの達の主人であるゆえに、幕屋、家を用意し、何不自由なく暮らせるようにしてくださる。それゆえにこの大群衆たちはひとりとして、飢え渇くものはいなくなる。飢え渇くというのは、食べるもの、飲むものにとどまらない。こころにおいてもそうであるというんですね。天の国に住むようになれば、イエスさまがここにいるすべてのものを導き、命の水を与え、今まで流していた涙をことごとくぬぐいさってくださるんだと言います。それはつまり、悲しみ、苦しみ、そういった人間がこの世を生きる上で避けることの出来ない困難によって傷つき、穴が開き、不安を抱いている、不満を、不足を抱えている、こころというものを、神さまが塞いでくださるんだ。ということであるわけです。
「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである。」
小羊であるイエスさまが命の泉に連れて行ってくださり、神さま自らが彼ら一人ひとりの目の涙を拭ってくださる。ここで語られているのは、イエスさまは迫害によって苦しめられている人々を「命の水の泉」へ導き、涙を拭い、慰めと癒しの言葉を語りかけてくださるのということであるわけです。そして、それはつまりわたしたちの救い主であるイエスさまが終わりの時に再臨する。そう約束されているということであるわけです。ここでこの黙示録を書いたヨハネは、ローマ帝国によって迫害にあっている人々、すでに命を落としてしまった人も、神さまによって必ず救われるんだという神さまから与えられた確信を書いたわけです。
ここを読んで、やはり聖書というものは、すごいな、神さまはすごいなと思うわけです。ヨハネという人は、今現在の苦しみは必ず神さまの導きによって、守りによって乗り越えていける。最後必ず神さまによって救われるんだということを書いたわけです。しかしここに書かれていることは、当時ローマの迫害下にあった彼らだけの問題ではない、ここで書かれている背景の問題、そして神の救いと言うものは、ヨハネをはじめとする当時生きていたキリスト者だけで話は終わらないということがわかるわけです。今現在、この世界を見渡してみて、人間というものは、世界というのは、根本的なものは一切変わっていないということを思うわけです。世界では未だに戦争があって人の命は奪われていく、その国の人であるという理由で迫害され、命が奪われていく。そういった戦地で生きているひとたちは住むところを追われ、食べるのも、飲むのも、本当に命がけであるわけです。不安と恐怖と、怒りと憎しみと苦しみの中、今日も一生懸命に生きている人々の上にミサイルが降っている。そして、それなら今ここにいるわたしたちは大丈夫なのか、飢え渇きが満たされて、彼らは本当に大変だなぁ、本当戦争反対!で終わりなのか。そうではなく、また別の飢え渇き、悲しみ、悩みがあるわけです。どれがマシなのか、とか、どれが大変でどれが深刻でとかそういうことではなく、人間の人生には、世界には絶えず、飢え、乾き、苦しみ、悩み、そして涙があるんだということなんです。それに対して聖書は、神さまは言うんです。その涙はぬぐわれるんだと。涙はぬぐわれるために流れるんだということを聖書はわたしたちに教えてくださるわけです。
以前ですね、「神さまは、わたしたちのことを救ってくださるというけれど、最後の最後じゃ困るんだ」という人がいたんです。最後、例え苦しみの中で召されても、必ずこの世界の最後に神さまがやって来てわたしたちを救ってくださる。そりゃあありがたいけれど、今この苦しみを何とかしてほしい。そう言っていたんです。言いたいことすごくわかるんです。止まない雨はないじゃなくて、今降っているこの雨を何とかしてほしいって言ってんの。て言うよくSNSでみる言葉です。確かにそう。
でもこの言葉は、ひとつ答えというか、今この瞬間にも慰めがあるんじゃないかと最近特に思うんです。どういうことかというと、今この瞬間にすべてが解決して、満たされる、そうではないけれど、神さまはわたしたちに、涙が必ずぬぐわれる明日があるということを確信して生きる今日を与えてくださっているんじゃないか。そう思うんです。何もなければ、悩み、悲しみがいつ終わるかわからない不安と恐怖を生きなければいけないわけです。しかしイエスさまはわたしたちにこう言われています。必ずいつの日にか救われるという希望をもってあなたたちは生きることが出来る。そのためにわたしは十字架にかかったのだ、そう言ってくださっているわけです。
この感謝と喜びに共に行きたいと願います。時に涙を流すことがあるでしょう。泣きたくなくても涙が溢れてくることがあるでしょう。しかし、それは必ずやってくる。その涙がぬぐわれるため、その救いのためにイエスさまが必ずこられるのだということを共に信じ、歩んでいきたいと願います。
10月19日礼拝説教
