礼拝説教「神の愛によって歩む」
聖書箇所:出エジプト20:1〜17、エフェソ5:1〜5、マタイ 19:13〜30
今日の聖書箇所、エフェソの信徒への手紙の5章3節からの部分を、ある人は「教会の訓練」と呼び、この箇所は信仰者にとってあるべき生活の姿が書かれているところなんだ、と言ったんです。信仰者にとってふさわしい生活はどういった生活なのか。5章3節からはこのように書かれています。「あなたがたの間では、聖なる者にふさわしく、みだらなことやいろいろの汚れたこと、あるいは貪欲なことを口にしてはなりません。卑わいな言葉や愚かな話、下品な冗談もふさわしいものではありません。」
ここでは聖なるものとしてふさわしく生きるためには、これこれこういったことはしてはならないんだ、ということが書かれています。みだらなこと、いろいろな汚れたこと、貪欲なこと。それからひわいな言葉や愚かな話、下品な冗談。これらのことをあなたがたは神さまによって聖なるものとしていただいたわけですから、行ったり、言ったりすることは控えなさいと言うわけなんです。なぜこのようなことが手紙に書かれることになったのか。それはエフェソという街がある背景を抱えていたことが原因だと考えられています。
エフェソという街は、今で言うところのトルコの地中海沿岸に位置しています。現在は遺跡になっていて世界遺産にも登録されているところです。その世界遺産になっているエフェソの遺跡群の中で特に有名なものがあります。それがアルテミス神殿という神殿です。名前から想像していただけるかもしれませんが、アルテミスというギリシャ神話にも登場する女神を祀った神殿です。これがエフェソにあるんです。ここから想像出来る背景があります。それは、ひとつはエフェソという街にはアルテミスという他の神々を信仰する者が多く住んでいるということ、もうひとつはアルテミス神殿を目当てに巡礼、参拝するものがエフェソには多く訪れたということ。これらが想像出来るわけです。
エフェソでは毎年3月から4月ごろ、彼らの暦で言うところのアルテミスの月に、街全体でアルテミスを祭る大きな祝祭を行っていました。アルテミスという女神は豊穣の女神として崇められていて、また同時に植物や動物たちの保護神であり、なによりエフェソの街の守護神でもありました。したがって神殿が立てられて、祭りが開かれていたわけです。このアルテミスの祭りというのは非常に官能的なものであったと言われています。どういうことかというと、アルテミスは豊穣の女神です。それはつまり子孫繁栄を約束する神であるということなんです。したがってアルテミス神殿には神殿娼婦がいて、祭りの際はそこで売春を行われていたと言うわけなんです。神殿でそういった行いをすることで子孫繁栄を祈願する、または子孫繫栄の力をアルテミスからいただくための儀式として、それを行うということが、当たり前にあったということなんです。そういった祭りに参加するため、多くの参詣人、観光客で街は賑わいました。それは莫大な富をもたらしていたわけです。神殿では銀で出来たアルテミス像が参詣人や観光客のために売られていたということが、使徒言行録の19章に書かれています。
このような背景を持つエフェソという街においても、イエス・キリストを主と告白するものたちが起こされました。しかしこのエフェソの教会に連なる彼らのそばには、わたしたちが想像する以上に、みだらなことやいろいろの汚れたこと、貪欲なことがあふれていた。そういったことを踏まえ、この手紙はエフェソでキリスト者として生きる彼らに対し、神さまによってイエスさまを信じ生きるものとされたのだから、人間的な欲に自らを委ねてしまうことなく神さまに対して聖いものであるように努めなさい。つまり誘惑にある中で訓練に努めなさいという勧めがなされているわけなんです。
そして、そのために具体的なある一つのことを、この手紙を書いたパウロはエフェソの教会の人々に勧めるんです。それは4節の最後に書かれています。「それよりも、感謝を表しなさい」。そう言うんです。人間の欲に関することについて口にすることを慎むように、そう言ったあとに出てくる言葉が「感謝」なんです。
パウロと言う人はよく感謝をしなさいと手紙に書きました。例えば今日の御言葉の他に「どんなことにも感謝しなさい」というテサロニケの信徒への手紙一、5章のみ言葉が有名です。パウロにとってふさわしい信仰生活というのは、またふさわしいように訓練するということは、つまり「感謝」をすることなんだというわけです。それをエフェソの教会の人々に勧め、今日わたしたちにも勧め励ましているわけなんですね。
神さまと共に生きる信仰生活において、神さまから与えられるものは何か。ある人が「それはあるがままを受け入れることである」と言いました。これこそが神さまと共に歩む人生において、与えられる最も良いものの一つなんだとそう言うんです。あるがままを受け入れる。それはつまり何を指しているかというと、感謝するということであるわけです。人生においてどのような出来事が起こったとしてもそれを受け止め受け入れる。それはどうしたらできるのか。その出来事の背後にわたしたちと共に歩んでくださっている主なる神さまがおられると言うことを信じるということであるわけです。すべてにおいて導きが与えられている、このような今があるのは、あの時確かに神さまがわたしを守り導いてくださったからに他ならないと感謝することが出来るということです。信仰生活において出会う出来事の全てを受け入れ、そして神さまに感謝する。すると喜びが与えられる。そのことによってますます信仰生活に恵みが増し加えられていく。信仰生活における、また教会における訓練の歩みとはそういうものであると、感謝によって始まる歩みなのだというわけなんです。
しかしです。わたしたちの人生が決して感謝ばかりの生活ではないということは、ここにいる一人ひとりが、痛いほどによくわかっていることであるなんです。つらいことがあって、悲しいことがあって、どうしようもない。「これで感謝をしろというのか、一体どうやって?」と思わずにはいられないことがあるわけです。それに対して、「俺たちゃいつも喜んでいなさいだぜ!」「感謝を忘れてはいけないだぜ!」って、無理矢理に言い聞かせることだけで、わたしたちは困難、試練を正面突破できるのか。偽りなく、無理なく、歪なく、心からの感謝を持って神さまと共に歩めるのか。自分の与えられた人生や生活に心の奥底から感謝をするということは、実はそう簡単に出来ることではないわけです。それならば、わたしたちは何をどうやって感謝すればいいのだろうかという話になるわけです。目の前ある苦しみや痛み、悲しみを見つめながら涙を流して「これでも本当に感謝なんだと」と声にならない静かな叫びを上げなくてはならない時、わたしたちは何に感謝するのか。
ある先生が説教の中でこのように言っています。「わたしたちは、神さまがわたしたちに与えてくださったものを感謝するのではなく、神を感謝するのである。」もし、自分に与えられたものに対して感謝をするならば、次から次へと困難や事件が起こり続ける人生において、感謝するということは非常に厳しい、もっというならあり得ないのではないかとその先生は言うんです。まして、いつも喜んで、絶えず祈り、どんなことにも感謝を絶やすことなく神さまと共に歩みつづけるというのは言わずもがなである、そう言うんですね。
しかし。神さまに対して感謝をする。神さまがわたしたちに与えてくださったものではなく、神さまを感謝するというのであれば、それが出来るようになるんだと言うんです。神さまがおられることを感謝し、神さまが生きてわたしたちに働いておられることを感謝し、神さまがわたしたち一人ひとりを愛してくださることを感謝するというのは、こういったことが与えられたとか、こういったことが起こったことによって嬉しかった、とかそういったものとは違うわけです。つまり何か良いことがあったから、何かが自分に与えられたから感謝をするという生活は、逆に神さまに感謝をする難易度を上げてしまうんだということなんです。なぜなら与えられないことがわたしたちにはあるからです。イエスさまが取りのけてくださいと祈った杯が、それでも目の前に置かれたように、どうか連れて行ってくださいと願ったモーセが、それでもカナンの地を前にして死ななければならなかったように、わたしたちには与えられないということがあるわけです。「与えられない恵み」というものがあるわけです。与えられて感謝する生活に生きてしまうなら、わたしたちはその「与えられない恵み」に気づくことが出来なくなってしまうわけです。信仰とは、神さまに感謝することではなく、神さまを感謝することなんだ。
神さまに感謝するではなく神さまを感謝する。言っていることはなんだか難しく聞こえるかもしれません。正直この説教を読んだ時、最初何を言っているんだとそう思いました。でも、じっくり読んでみるとたしかにその通りではないかと思ったんです。わたしたちは神さまに感謝しますね。感謝の祈りを捧げます。それは決してわたしたちが望む何かが与えられたから、感謝を捧げるわけではないわけです。たとえ与えられなくても、神さまが神さまでいてくれたこと、そしてそんな神さまがこのわたしを知っていてくださり愛してくださっていること、わたしたちと共に歩んでくださっていること、そんな神さまの愛によって歩ませていただいていることを感謝するわけです。わたしの人生に神さまがおられること、このようにして、この礼拝においてみ言葉に聞き、祈りをささげることが赦されている。このことに感謝するわけです。この感謝をの歩みをパウロはエフェソの人々に勧めるわけです。なぜそのように歩むのだとパウロは勧めるのか。それはみだらなこと、汚れたこと、貪欲なこと、それに惹かれるのは、与えられて満足する生活に歩もうとしているからであるわけです。だからパウロは言うわけです。「感謝を表しなさい。」そう言う。
足りないものを満たしたい、だから人間は求めます。エフェソの人々はアルテミス信仰という足りないものを満たすための行いをすることによって満足しようとする信仰に生きていました。つまり偶像礼拝に生きていたわけです。その中から神さまに招かれて信仰が与えられた人々も、そういった偶像崇拝の営みに生きる人たちに囲まれて教会生活を送っていたわけです。
わたしたち人間は、報われなさを、寂しさを、霊において、肉において出来た空席を我慢することは中々出来ない。何かで埋めようとします。体を重ねること、何かを手に入れること、何かを食べること、どこかに行くこと。別にそれがまったく罪な行いであるとはわたしは言わないです。言えない。しかし、それではいつまでも満たされた状態でいることができないんだということ、つまりは救われないんだということも、それはやっぱり何故だかはっきりと言えないけれど、心の底でわかるわけです。何度もわたしたちは味わってきました。腹はへる、眠くなる、悲しくなる、寂しくなる、空しくなる、不満が出てくる、足りなくなる、わからなくなる。だから求めて、貪欲になり、そこにみだらなことや汚れたことがあれば、その罪が口から出てきてしまうわけなんです。そしてわたしたちは時にそれに縋る。偶像を崇拝し、偶像を礼拝するものとなってしまう。わたしたちは本当にどうしようもない罪びとです。
しかし、感謝というものは、神さまを感謝するというのは、そういったわたしたちの状況、わたしたちがどういった心持ちで今生きているか、生かされているかは関係ないんです。いやむしろ「神さまを感謝する生活」に生きることによって、その不満を、満たされない思いを乗り越えることが出来るのだと聖書は言うんです。つまりこのようなわたしたちのために、わたしたちの主であるイエスさまが十字架の上で捧げられた命で、わたしたちの罪が贖われたと信じる。そのことによって、神さまを感謝する生活の歩みに生きることが出来るのだというんです。神さまの愛に生きることが出来るようになるんです。なぜでしょうか。それは神さまを信じて歩ませていただくその歩みは、その中で出会う、足りなさ、虚しさ、切なさ、それらはすべて神さまが与えてくださり、備えてくださる道の途中にあるもので、そしてそれらがわたしたちの人生に与えられた、最終的な結末ではない。そう信じることが出来るからです。罪、悲しみ、苦しみ、悩み、病、死、出会い、別れ、それらを乗り越え、先へと続く道が、神さまと共に生きる感謝の歩みによってたどり着く明日が、わたしたちには神さまから与えられているのです。そしてそのようなわたしたちと共に神さまがいてくださり、この満たされない思いを共に味わって下さり、共に泣いてくださり、呻いてくださり、なによりも、この自分でもなんと言い表してよいかわからないこの思いを感謝に変えてくださるのです。だから、わたしたちは感謝に生きることができる。神さまを感謝する生活を神さまと共に歩むことが出来る。油断すればすぐにわたしたちの口から出てきてしまう、汚れたものに礼拝を捧げることなく、神さまを礼拝する恵みに与ることが出来るのです。
わたしたちは礼拝において神さまから得たもの、与えられたものに感謝するのではなく、ただ神さまのみを感謝し、神さまの聖名を讃えたい。そう思います。その恵みに今日も招いていただいています。本当にありがたいことです。感謝して、共に祈りを捧げたいと願います。
2025年10月5日礼拝説教
