礼拝説教「憐れみに生きてくださる主」
聖書箇所:創世記45:1〜15、ヤコブの手紙2:8〜13、マタイによる福音書18:21〜35
今日皆さんとお聞きしましたヤコブの手紙。このヤコブの手紙というものは、新約聖書の中の「公同書簡」、「公同の手紙」と呼ばれているグループに含まれている文書なんです。新約聖書の中にある文書は、いくつかのグループに分類されて位置づけられたり、考えられたりすることがあります。
どういったグループ、分類があるかというと、例えば福音書というグループがあるわけですね。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネといった各福音書を、同じ福音書というカテゴリーでくくる。そういう分類があるわけです。他にも、使徒パウロが書いたとされる手紙でまとめたグループをパウロ書簡と呼ぶことがあります。ローマの信徒への手紙ですとか、コリント、ガラテヤ、テサロニケ、他にもありますけれど、そういったパウロがそれぞれの教会に書き送った手紙をまとめてパウロ書簡と呼んで分類することがあるわけです。
始めにお話した通り、今日お聞きしたヤコブの手紙は公同書簡というグループに分類されます。公同書簡に分類されているものはヤコブの手紙の他に、ペテロの手紙の一と二、ヨハネの手紙の一から三、ユダの手紙といった6つの手紙があります。ヤコブの手紙と合わせて全部で7つの手紙が公同書簡と呼ばれているわけです。
この公同書簡はどういった特徴を持っている文書なんでしょうか。それは公同書簡の公同という言葉に表されています。公同という言葉は世間一般、社会一般という意味を持ち、公同書簡とは、世間大衆一般に向けて書かれた手紙、もしくは特定の誰かに当てたものでもキリスト者全般に向けて書かれている性質を持っている、そういった手紙を意味して公同書簡というわけなんです。パウロ書簡のうちの例えばローマの信徒への手紙はまさに名前が表しているようにローマの教会の信徒に向けて書かれている手紙であるわけです。
そういったわけでこのヤコブの手紙というのは特定の誰かということではなく、広い対象に向けて書かれた手紙であるわけです。ヤコブの手紙の1章1節には「神と主イエス・キリストの僕であるヤコブが、離散している十二部族の人たちに挨拶いたします。」と書かれています。この手紙を書いたヤコブは広くローマ世界にある教会すべてのキリスト者に向けてこの手紙の内容を呼びかけたわけです。
この挨拶に出てくる十二部族という言葉は、旧約聖書に出てくるイスラエルの十二部族、出エジプトを経験し神さまに導かれてカナンの地にたどり着いたすべての者たちという意味があります。つまりこの世界にいるすべてのユダヤの人々、キリスト者に向けてこの手紙は書かれているんだということを表しているわけです。また離散という言葉は、使徒言行録に書かれているステファノの殉教の影響で迫害を恐れてエルサレムから逃げだした人々に向けて書かれているとも言われています。
さて、このヤコブの手紙で呼びかけられていること、すべてのキリスト者に向けてヤコブが言っていることは何かというと、御言葉を聞き、それを実践する人になりなさいということです。ヤコブの手紙1章22節にこのような言葉が出てきます。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わるものになってはいけません。」ここで言われていることは、信仰生活において御言葉に聞き、それを行動に移すということはとても大事なんだ。ただ聞いてそれで終わりではだめなんだ、ということなんです。
御言葉に聞き、それを行うことは大切なんだ。そう聞くとおやっと思う人がいるかもしれません。実はヤコブの手紙の言葉とは正反対に思えるような言葉が、パウロ書簡の中の一つ、ガラテヤの信徒への手紙の中に書かれているんです。ガラテヤの信徒への手紙2章16節にはこのような言葉が出てくるんです。そのままお聞きください。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」
ここでは、聖書に書かれていることさえすれば救われる、逆に聖書に書かれていることが出来ないものは救われないとわたしたち人間の側から決めることは出来ず、ただイエスさまの十字架と復活を信じて生きる者のみが神の子とされ、神さまの目に正しい、「義」とされるものとなるんだということが書かれています。この信仰によって義とされるという言葉は「信仰義認」という考え、行いによって、何かを成し遂げることによって人は救われるのだという考えを否定し、ただ神さまに全てを、それこそ自らの救いの可否をも神さまに委ねることによって救われるということを意味する考えの根拠とされたわけなんです。この「信仰義認」という言葉の反対に位置する言葉として「行為義認」という言葉が生まれました。つまり行いによって義とされる。み言葉の実践によって救われようとする人々のことを指してそう言うようになったんです。ヤコブの手紙で言われていることは、この行為義認を後押ししている、行為義認による救いを認めているように一見すると見える。「御言葉を行う人になる」それこそが神さまに救われるために大事なことなんだ。このように聞くと確かに信仰義認を否定し、行為義認を推奨する言葉に聞こえなくもないわけです。
しかし、一説によると、どうやらこのヤコブの手紙が書かれたのは、「信仰義認」、イエスさまを信じる信仰によって神さまに救っていただくという考えを間違って解釈した人たちが原因であると言われています。
信仰義認を間違って解釈した人たちというのは一体どういった人たちなのか。それは信仰生活の中でこういった考えに辿り付いてしまった人たちでした。「イエスさまを主と信じ、告白することで救われるというのであれば、信じているだけで充分というのであれば、どのような信仰生活を送っても構わないのではないか。なぜなら、もうすでに救いの証である洗礼を受けて神の子とされたのだから」こういう考えに至ってしまった人たちがいたというわけです。パウロの手紙や、その教えを聞くことによって、「御言葉に聞き、イエスさまの十字架と復活によってわたしたちの罪が贖われたということを信じたものはどのようなものであっても、ユダヤ人でなくとも、異邦人であっても救われて神の子とされる」そう信じたまでは良かったけれども、洗礼がゴールであってその後はどのような生き方をしてもよい、また聖書に書かれていることと矛盾するようなことをしても問題ないという人たちが現れたというんです。
そういった人たちに対して、このヤコブの手紙は書かれたというわけです。信じることによって救われる。それは正しい。しかし、信じ救われたものたちには、救いと同時に神さまに救われた感謝や喜びが与えられるはずではないか。その信仰によって、行いも当然変えられていくはずではないか。信仰によって行いは変わる。御言葉に聞き、御言葉を行う人となる。そうではないのか。救われて、感謝と喜びと信仰に生きているにも関わらず、それが行いにまったく表れないというのは、それはどうなのか。そうヤコブは言うわけなんです。
そういった背景があって、今日の御言葉があるわけなんですね。今日の箇所ヤコブの手紙2章8節からの部分には、このような小見出しが書かれています。「人を分け隔てしてはならない」。神さまに救われた喜びに生きるものたちは、どのように生きていくのか、つまりどのように御言葉を行うのか。その答えの一つに「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に生きるというものがある。そうヤコブは言うわけです。「もしあなたがたが、聖書に従って「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているなら、それは結構なことです。」しかし、実際はそうではなかったとヤコブは指摘するわけです。人を分け隔てしてはならないにも関わらず、あなたがたは分け隔てをしている。今日の箇所の少し前の2章6節には「だが、あなたがたは、貧しい人を辱めた。」という言葉が出てきます。ヤコブは神さまを信じたにも関わらず、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊いみ言葉を行うことをせずに、貧しい人を愛すことをしなかった、しなかったばかりか貧しい人を辱しめたというわけです。
この事について、つまり一体何があってこのようなことをヤコブは言うのか、具体的なことがここには語られています。こういったことがあったと言うんです。教会に「金の指輪をはめた立派な身なりの人」と「汚れた服装をした貧しい人」が入って来た時、立派な身なりの人に対しては特別な席を用意して案内し、貧しい人に対してはその場に立たせるか、もしくは床に座らせたのだと言うんです。それは分け隔て、であり、もっと言えば「差別」であって、あなたがたは誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではりませんかとヤコブは言うわけなんです。
当時の聖書の世界は身分制度が存在する社会であって、例えば貴族であったり、お金持ちの自由人であったり、商人、農民、そして奴隷もいたり、という時代であったわけです。つまり今以上に見た目による差、身分によって服装の差がはっきりとしていたわけです。人を見た目の立派さであるとか、もしくは裕福さや、身分によって分け隔て、判断し、優遇したり冷遇したりする。それは誤った考えである。そのようにヤコブは言います。なぜなら教会というキリスト者の群れというのは、わたしたちの主であるイエスさまによって救われて、その感謝と喜びに生きているものたちによる群れであるからです。そしてその群れは神さまに生き、また隣人を自分のように愛する人の群れであるわけです。もっと言えばそのようにわたしたちを愛してくださったイエスさまを信じ生きる群れであるわけです。
この世で貧しい人、弱い人を分け隔てなく愛してくださり、罪人を赦すために十字架の上で命を捧げてくださったイエスさまは三日の後に復活し天に昇られ、全能の父なる神の右の座し、今もわたしたちのところに愛をもって働いてくださり、死と罪に勝利してくださった栄光に満ち溢れている。そのようにわたしたちは信じています。その神の愛と栄光の前においてはこの世における栄光や価値といったものはまったく意味を持たないものとなるわけなんです。例え見た目が立派であろうとも、財産を持っていようとも、地位や身分、才能を持っていようとも、それが全てではなくなる。一番大切なものではなくなるわけです。
わたしたちにとって一番大切なものは、一番大切にすべきものは、神さまです。神さまによってわたしたちに与えられた御言葉と愛です。そしてわたしたちの罪を贖われるためにこの地に来て下さり、愛と慈しみと憐れみとをもってこの世を生きてくださったイエスさまを大切にする。それがわたしたちキリスト者であるわけです。
このことを生活の土台とし、わたしたちは神さまと共に生き、神さまのみ言葉を行うことに何よりもの価値を見る、感謝と喜び、恵みを見いだして生きるのがわたしたちキリスト者であり、わたしたちが群れとして歩む教会という交わりであるわけです。わたしたちに神さまが与えてくださった信仰と分け隔て、差別というものは全く交わらないものです。わたしたちに対して神さまは分け隔てなく愛して下さり信仰に生きることを許してくださいます。そして愛する独り子であるイエスさまを十字架に付けその命をもって罪を贖ってくださったわけです。
わたしたちは隣人を自分のように愛せているのか。すべて神さまはご存知であるわけです。わたしはこのヤコブの手紙がどうして書かれたか、そしてこのヤコブが手紙を書くにあたって頭に浮かべた人たちの気持ちが、なんかわかる気がするんです。分け隔てなく生きているか、隣人を愛することが出来ているか、御言葉に生きているか。わたしたちはそれらを出来ているとはとても言えない者たちでしょう。誰一人として神さまの愛にちゃんと生き切ることは出来ない。だからこそ信仰によって救われたという言葉がわたしたちの救いになるわけですし、信仰によって救われたのであれば、どうせわたしたち罪びとなる人間は完全にみ言葉に生きることなど出来ないのだから、完全に出来ないのであれば、無理にやらなくてもいい。だって罪びとだもの。そう開き直りたくなる気持ちがわかる気がするんです。
でもそこで開き直ってもういいわってなるときに、やっぱりわたしはイエスさまの十字架を思い起こしたい。このわたしのために十字架にかかり、命を捧げてくださったイエスさまのことを思い起こしたいと思うんです。人に、すべての人に、わたしたちに、このわたしに、憐れんでくださったお方のことを思い起こしたい。
すぐにそのことを忘れてしまうわたしたちは、やっぱり祈って、賛美をささげて、聖書を読み、礼拝を捧げることが大事だと思うんです。それはやっぱり御言葉に生きる、神さまに生きるということ、御言葉を行うということであるわけです。
今日の13節でヤコブは憐れみに生きないものを神は憐れむことはないと言います。人に憐れみをもって愛をもって生きるとき、神さまは憐れんでくださるんだと言うんです。これは因果応報的な解釈が出来てしまうことばだと思います。だから裁かれたくなければ、憐れみに生きるのだと読めてしまうわけです。しかしわたしはこう思うんです。こう読みたい。神さまは、既にわたしたちを完璧に、完全なものとして憐れんでくださっている。わたしたち一人ひとりは、皆の憐れみによって生かされている。
だから、わたしたちはそのことを感謝して生きよう。少しでも神さまに、また祈りに覚えてくださっている、愛する兄弟姉妹の一人ひとりに感謝して生きよう。そのように生きていきたいわけです。共に生きましょう。愛する神さまに、兄弟姉妹の憐れみによって生かされている今日の日を心から感謝して、また新たな週の歩みにみんなで向かって行きましょう。
2025年9月28日礼拝説教
