礼拝説教「わたしたちが信じているもの」
聖書箇所:列王上3:4〜15、コリント(一) 15:35〜52、マタイ13:44〜52
今お聞きしましたコリントの信徒への手紙(一)の15章。この15章のテーマは「死者の復活とはどういったものなのか」です。もちろんこの死者の復活というのは、わたしたち自身の復活のことを指しています。イエスさまが十字架の上でわたしたちのために死んでくださり三日の後に復活してくださった。このことを信じ洗礼を受けたキリスト者は、この世で生きる体において死んで葬られても、この世の終わり、イエスさまがもう一度この世に来られる再臨の時に復活して永遠の命を生きる新しい体を与えられるのだ。この手紙を書いたパウロという人はそのようにこの15章で言っているわけです。
イエスさまを信じ洗礼に与った人たちはこの世の終わりに復活するんだ。そう聞くと、普通に考えればありえない、そういったものに聞こえるかもしれません。しかし、わたしたちはこのことを信じ、また礼拝の中で告白し、生きています。そして今日ここに一人ひとりの写真が置かれています。この笠岡教会に生きた信仰の先達たちも同じようにして、まさにこの信仰に生き、この地での生涯を終えられたわけです。なぜわたしたちは、そのような普通に考えたらありえないことを信じているのでしょうか。信じることになったのでしょうか。
信じるには何かがなければ信じることが出来ません。何もないのにわたしたちもわたしたちがこの世の終わりに復活するということをただ信じることなど出来ないわけです。物事にはちゃんと理由がある。その理由となったことがあるわけです。わたしたちがこの信仰に生きることとなったその根拠がある。それはなにか。わたしたちの主イエス・キリストの復活であるわけです。イエスさまが十字架にかけられて殺され三日目に復活したという、このことがなければ、わたしたちはこの復活ということを信じることはなかったですし、今こうして教会が立つことも、そしてここにいる多くの信仰者たちが起こされることもなかったわけです。
わたしたちが確かにあったのだと信じているイエスさまの復活。このことははっきり言ってしまえば、まったく疑いのない、確かなものであると証明できることではないわけです。イエスさまの復活は信仰によって信じるしかないことなんだというわけです。しかし、それが確かなことなのではないか、本当であったのではないかと信じるに足る状況は今現在も確かにある。そうここにいる私を含め多くの者たちが思っているわけです。一つ例をあげるならこの教会の誕生です。2000年間に及ぶ今日のキリスト教の発展というのは、これはイエスさまの復活なしには説明できないことであるわけです。遠く、中東の現在でいうイスラエルにおいて起こった出来事が、この日本の岡山県笠岡市においても信じられ、教会が立てられ、多くの信徒が教会でおこされた。このことは、確かなものがなければ、信じられている事柄がなければここまで続くことはないわけです。わたしたちが信じていること、また教会が2000年もの間途絶えることなく言いつづけてきたこと、それはイエスさまの復活です。イエスさまに十字架よって罪の赦しがあり、復活がある、このことを信仰の中心にして教会は歩み続けてきました。 もちろん今言ったような2000年間も確かに信じられている宗教だからわたしたちは信じているのか、といったらそれだけではないんですよね。わたしたちがイエスさまの復活を信じ、また同じようにわたしたちたち自身の復活を信じたのは、イエスさまの十字架の死と復活が、わたしたちの人生と、もっと言えば、わたしたちの死と復活とが結びついたからであるわけです。ただ歴史的に、たしかにイエスという人物がいたというだけでわたしたちは復活を信じるわけではないし、イエスさまの遺体は最後まで見つけられなかったということだけではわたしたちは復活を信じることは出来ないと思うんです、そして、2000年もの間、教会が、信仰が確かに伝えられて守られてきたということ、そういったむかしながら伝統あるありがたいものだからわたしたちは信じたわけでもない。
イエスさまの復活とわたしたちの復活が結びついた。つまりわたしたちが神さまを信じ、イエスさまを主と告白し、教会に連なって生きるものとなったのは、イエスさまの十字架の死が確かにわたしたちのためであったという信仰において、イエスさまの復活とわたしたちの復活が結びついたことによるわけです。
わたしたちの主であるイエス・キリストは、わたしたちのために、わたしたちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったんだ。このイエス・キリストの死によって、父なる神さまはわたしたちの罪を赦して下さった。このことを信じることによって、イエスさまの十字架の死が神さまによる救いのみ業であるとなり、イエスさまの復活もまた、わたしたちのためになされた神さまの恵みのみ業であると信じることができるようになるわけです。それはつまり、イエスさまの復活は、ただ神さまの独り子であるイエスさまを救うために神さまが行った御業ではないものではないということです。イエスさまを復活させることによって、この世に生きるわたしたちを救ってくださった。わたしたち一人ひとりに死と滅びに打ち勝つ新しい命を与えて下さるという恵みを表し、示して下さった、それがイエスさまの復活であるわけです。聖書には、イエスさまはわたしたちの復活の初穂、先駆けなんだとあります。それはつまり、わたしたちがイエスさまと同じように復活するということを、イエスさまの復活を通して、神さまが示してくださっているのだということであるわけです。ここにわたしたちは希望を置き、信じ、生きているわけです。このようにイエスさまの復活というのはわたしたちの復活の根拠であり、保証であるわけです。
このようなわたしたちの救いの根拠であり保証である、イエスさまの復活というのは確かに目に見える体の復活であったと聖書に書かれています。これが何を示しているのかというと、イエスさまを通してわたしたちに示されている復活もまた、魂が復活するとか、霊となるとかそういった話ではないというわけです。肉体は朽ちても魂だけは永遠に残り最後救いにあずかることが出来るというのではなく、わたしたちは体、肉体をもって復活し、死して葬られ、朽ち、焼かれ骨となったものでなく、新しい体が与えられるというわけです。わたしたちはこの人生の終わり、肉体が死を迎えることによって、魂が神さまのみもとに生き、安らかに眠り、イエスさまと共にいることになると信じていますし、葬儀における説教でもそのように言います。この手紙を書いたパウロも同じことを言ってるわけです。 しかしそれが救いの完成ではない。魂が神の御許に召されて終わりではなく、復活において新しい体が与えられ、魂と体を持つ存在として永遠の命を生きる者とされる。これが聖書に書かれわたしたちが確かにそうであると信じる救いであるわけです。教会はこのことを2000年間信じ、この教えを固く守ってきたわけです。
しかしこのように、わたしたちの目に見えるこの体の復活を信じるということになると様々な疑問が出てくるわけです。今日の聖書にもこのような言葉が出てきました。「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」。体の復活というけれどその体はどういったものか、食べることは出来るのか、どのように呼吸するのか、服を着ているのか、それとも裸なのか、そういった疑問です。さらには何歳ぐらいの姿で復活するのかということも問題になると思います。年をとって死んだ姿で復活するのはあまりうれしくない。もっと元気な時の姿で復活させて欲しいとそういう人も出てくるでしょう。また幼い時に、赤ちゃんのまま死んだ者は赤ん坊のままで復活するのか、もっと成長した姿でというわけにはいかないのかという問いや願いも出てきます。さらには体に障碍がある人はどうなのか。この世を生きている時と同じようにして復活することになるのか。一口に体の復活といってもこういった様々な疑問にぶつかるわけです。そしてこのようなことを考えていくとだんだん、体の復活というのはありがたくないことなのではないかと思うように考えられるようになっていったわけです。したがって今日の聖書のような問いが生まれるようになった。
パウロはこの問いについて種と実の例えを使い語るわけです。「愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります」。パウロは何を言っているのか、それはこう言うことであるわけです。蒔く種と、そこから育った実というのは、似ても似つかないものでしょう。そう言う。蒔かれる時は種だったものが、芽を出し、葉が出て、花が咲き、実をつける。これをパウロはこの世に生きるわたしたちの体という種が死に、復活によって神さまによって実という新しい体が与えられるのだと言っているわけです。パウロは「神は、御心のままに、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになる」と言います。わたしたち一人ひとりに神さまは同じものはひとつとない体を与えてくださり、そしてこのからだが死んだのちも、全く新しい復活の体という実を与えてくださる。その種と実はまったく似ても似つかないものだ。だから様々に沸き起こる復活についての疑問というのは、不都合に感じる事柄というのは、全く問題ではない。むしろ神さまの恵みによって、わたしという種、わたしという存在を確かに保ちながら新しい完全な実をつける新しい体をもって復活することが出来ると言うわけです。
パウロは今のこの体と復活の体はつながらないのだと強調します。わたしたちは今のこの体から、この世の生活から、この世における関係から、復活のことを類推する必要はない、つまり心配しなくてよいというわけです。わたしたちが今のこの肉体をもって生きている人生には様々な問題があります。足りないものが、不都合が、悩みが、苦しみがあるわけです。しかし復活において与えられる新しい体、新しい命にはそういった苦しみは引き継がれない。神さまの新しい創造の力によってまったく新しい命が与えられるというわけです。だから復活というのはわたしたちが今抱えている全ての苦しみ、悩み、悲しみが取り去られるという希望となって、喜びをもって待ち望むべきこととなるわけです。この望み、希望をもって、この笠岡教会の信仰の先達たち生き、そして眠りについたわけです。パウロはこの今の体と、復活した新しい体を、「地上の体、天体の体」と表します。これが何を表しているのかというと、わたしたちの復活には神さまの天地創造と同じ御業が働くのだということであるわけです。創世記という世界の始まりが書かれている書物に、太陽や星といったものは父なる神さまが御心のままに創造されたんだということが書かれています。そのようにしてわたしたち一人ひとりを、異なる天体、星々のように新しい体を創造し与えてくださるというんです。そして、その神さまがわたしたち一人ひとりに与えてくださる体は、それこそ夜空に輝く星々や天体のように、一つひとつ違う輝きを持っているというわけです。わたしたちにはそれこそ夜空を見上げて輝いている星のように、あたらしい光輝く復活の命が与えられていて、それを希望に生きることが赦されている。その希望の中生きているんだということを聖書はわたしたちに語り掛けてくださる。
さらにここではひとつ、大切なことが書かれていると思います。それはあたらしい復活の体、輝く星のような天体の体、それだけが良いもの、神さまの作る救いではないということです。地上の体、天体の体、どちらも神さまが喜びをもって愛をもって創造された命であるということにはかわりません。繰り返しになりますが、この地上の体の送る人生にはいろいろなことが起きます。問題が出てくるわけです。病、ケガ、障害、悩み、苦しみ、不安、不満、恐れ。そういったことがある。しかしその今を生きる体も神さまが愛をもって創造し、神さまと共に、また愛するものたちと共に生きよとお命じになってくださった人生であるわけです。神さまを信じて生きるものたちはそのことを信じていきる平安があります。神さまを信じなければ、悩み、苦しみ、不安、そういったものは運命、生まれつき仕方のないものである、そういうとらえ方でしか乗り越えることが出来なくなる。しかし神さまを信じ生きるものはその先に必ず希望が与えられているのだという喜びに生きることが出来るようになるわけです。つまりわたしたちの今地上の体も、神さまの愛によって輝かせていただいている命であるわけです。そしてちゃんと救いが用意されている。さらにその先に今の悩み苦しみを超えた輝かしい救いの復活の御業が待っているというんです。
そのことを、ここにいる、また今神さまの御許で眠りにつく信仰の先達たちと共に希望をもって、信じ、待ち望みつつ歩んでいきたいと願います。この歩みは続いていきます。多くのものたちを仲間に加えながら進みます。この喜びの歩みに多くのものが連なっていくように、祈りつつ歩んでいきたいと願います。
2025年9月14日礼拝説教
