礼拝説教「待ち望みつつ、生きる」
聖書箇所:ハバクク 3:17〜19、ローマ 8:18〜25、マタイ 13:24〜43
今日お聞きしましたローマの信徒への手紙の8章18節から25節の箇所において、パウロは「わたしたちには将来、希望があたえられている。この与えられている希望こそがわたしたちの救いなんだ」と言うんです。
わたしたちには栄光が神さまから与えられる。このことが神さまによって約束されていて、これこそがわたしたちの救いなんだとパウロは言っているんです。それではその栄光、希望、救い、これがどういったものなんだと。これをですね、今日はみんなで聞いていきたいわけです。
今日の聖書の箇所、初めの18節、ここでパウロは「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」と言います。「現在の苦しみ」と「将来わたしたちに現されるはずの栄光」を比較するところから、今日の箇所をはじめるわけです。
パウロは将来の栄光、これと比べれば現在の苦しみなんていうものは取るに足りないものなんだと言うんです。パウロの言うこの「現在の苦しみ」というのは何を指しているか。
「現在の苦しみ」と聞くとですね、今わたしたちが生活の中でそれぞれにかかえている様々な苦しみというのを思い浮かべるわけです。これはもちろん間違いではないんです。今、人生の歩みの中でぶつかり悩み苦しんでいることがある。そういった苦しみの中にあっても、神さまを信じ生きるものには希望が与えられている。それは今の苦しみとは比べものにならないものなんだ。そう読むのもまったくの不正解ではないわけです。
しかしながら、パウロが言っている「現在の苦しみ」というのは実はちょっと違うわけです。「現在の苦しみ」、それはそれぞれに抱えている人生の悩み苦しみだけを指すものではないんです。行ってしまえばもっと深く根源的な、人それぞれにある苦しみの奥にあるものをパウロは見つめているわけです。それぞれの人生における苦しみというのは、その中身によっては解決可能な苦しみであるということが言えてしまうわけです。例えば事情が変われば、また時の経過によって苦しみの原因が取り除かれる。そして最終的にその苦しみから解放される。わたしたちの人生で思いうかべる、苦しみというもの中身にはそういった事柄があるのではないかと思うんです。
しかしパウロはそれを現在の苦しみとは言わないんですね。それを全ての苦しみ、現在の苦しみと言ってしまうと、例えば「わたしは今幸せです」とか「わたしは今苦しんでなんかいないんで、なんか変なこというのやめてもらえますか?」という人には今日のパウロの言葉はまったく届かないことになってしまうんです。パウロは今日の言葉を、今現在自らの内に悩みを抱えて苦しんでいる人にだけ伝えようとしているわけではありません。そういった悩み苦しむ人たちにはもちろんのこと、すべての人たちに対してパウロは伝えたいわけです。わたしたち、全てのものには神さまから希望が与えられている。これが神さまによって約束されているんだ。その希望にわたしたちは生きていくんだ。そう言いたい。
つまり、パウロの言う現在の苦しみというのは、すべての人間が根源的に抱えている苦しみのことを言います。つまりパウロはこう言っていると言っていい。すべての人間というのは、もっと言えば、この世のすべての存在は苦しみの中にある。パウロはこの言葉を「すべての被造物は虚無に服している」そう言い表しています。
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」
これが何をさしているのか。パウロはここで罪のことを言っているわけです。わたしたちには虚無という罪に服している。服さざるを得ないものたちなんだというわけです。この罪というのはどこからやって来たのか。それは人間の背きであり、またそれによる神さまの裁きによってやってきたわけです。このことは創世記の3章のアダムとエバの楽園追放の物語に書かれている通りであるわけです。
最初、人間は神さまの元で神さまと共に生きる恵みの中で生きていました。しかし蛇による誘惑に負け、神さまと同じ存在になろうと知恵の木の実を食べてしまった。そのことによって楽園を追放された人間たちは土を耕し、パンを得て、苦しみながら子を産み、そして土に還り、滅びる存在となった。こういったことが創世記の3章には書かれているわけです。わたしたちは神さまに背き罪人となった。その罪はアダムとエバで終わることなく、今に至るまですべての人間の内にあるものとなった。そして人間が神さまに背くものならざるを得ない罪というものは、自分の意志でなく、わたしたちを創造しご支配のうちに置かれている、服従させたお方、すなわち神さまの御意志によってなったものであるとパウロは言うわけです。
わたしたちは生きていく中で、このわたしの内に罪があるということをなんども思い知ります。例えわたしたちの人生において幸せがあっても、喜びで満たされていても、それでもあの時悲しみは消えないし、忘れていたころに突然目の前に表れたりするし、なんだか切ないし、空しいし、不安になったり、怖くなったりする。自分だけに止まらない。世界を見渡してみても、こんなにも世界は愛と喜びにあふれていると同時に、世界は苦しみと悩み、涙と血と争いとにあふれていると思わされる。人間は実はいつでもパウロの言う苦しみと、虚無と、罪と隣り合わせで生きている。それは2000年前の聖書の世界に生きる人々であっても、今この世を生きているわたしたちであっても変わらないわけです。全てのものが今日まで共にうめき、共に産みの苦しみを味わいながら、現在も罪の中で苦しみ、神さまに背いて生きている。このようなこの被造物すべての抱える「現在の苦しみ」に対して、罪に対して、パウロは言います。たしかに「将来わたしたちに現されるはずの栄光」があるんだ、罪の内に生きる虚無と絶望とに対して、同時に希望をも持っているんだと、パウロはそう言うんです。絶望と虚無の中に生きるわたしたちに、希望はある。
今は苦しみによって隠されてしまっている栄光が、苦しみによって見ることの出来なくなってしまっている栄光というものが、将来、必ず明らかにされわたしたちに与えられる。この栄光というものは、現在の苦しみとは比べものにならないほどに素晴しい、自由で開放されたものなんだ。そういった栄光が、救いが、今現在は隠されているけれども、将来には必ず明らかになってわたしたちに与えられる。このことを信じて生きるものこそ、霊の初穂を頂いている「わたしたち」。つまりイエスさまを信じる信仰者の人生なんだとパウロは言っているのです。
そして神さまと出会ったことによって、現在の苦しみが、罪なるもの、わたしたちの内にある根源的なもの、見たくなくても現れ、ふたをしても外して出てくる、逃げだした先にも必ず顔を出してくる、そういったものが自分のうちにあるのだ、この世界にはあるのだ、それによってこの世には、私の人生には悲しみと苦しみがあるのだ、ということに気が付いた一人ひとり、まだイエスさまを主と告白していないものも、信仰者という人生へと招かれているとパウロは言っているわけです。
現在の苦しみの中で、罪なる人生を歩む中で、将来、神さまが必ず現してくださると約束されている栄光を信じて生きるということ。つまり神さまを信じ生きるということ。わたしたちの人生の主は、救い主イエス・キリストであると告白して生きるということ。この信仰生活、人生は、苦しみの中、罪の中、忍耐しつつ待ち望むという歩みであるとパウロは言います。
信仰に生きるとは、この人生の中で出会う、苦しみや悩み、悲しみといって全てから解放される。もうこの人生この先、そういった苦しみは一切訪れることはないということだ、安心しなさい。そのようにパウロは言わないんです。信仰に生きるとは、苦しみの中で、罪による悲惨が繰り返し起こるこの世界で将来現される栄光を待ち望みつつ忍耐して生きることなんだ。そう言うんです。それは言い換えるなら、苦しみの中でも希望を失わずに生きることなんだというわけです。つまりわたしたちの側から、希望というものを無くすことはない。必ず希望が神さまによって残されているということです。したがって神さまが残してくださっている希望というのは、わたしたちが苦しみの中で、「こうなってほしい」と願うような単なる願望ではないということなんですね。そう言った人間が想像する、想像しうる願望をはるかに超えた、将来の栄光を神さまが約束して下さっているということです。
信仰者は神さまの約束によって与えられた希望を信じ、その実現を待ち望みながら生きます。その希望が、現在の苦しみの中で私たちを支えて、忍耐してそれと時に戦い、時に共に生き、乗り越えようとする力となるわけです。神さまはわたしたちの人生の力です。それはわたしたちの力ではない。わたしたちの力によって強めていくものではない。ただ神さまが与えてくださるものであるわけです。信仰に生きるというのは、信じることと、疑うということをひたすら往復することだと思います。感謝と不満とをひたすら往復することだと思います。喜びと悲しみをひたすら往復することだと思います。罪と赦しをひたすらに往復するものだと思います。信じたい、信じた、けれども、しかしとても信じているものとは思えないことをしてしまった。救ってくださってありがとうございますと祈ったその帰り道で神さまなんてことをしてくれたんだと悪態をついた。人生喜びだけではない、どうしたって悲しみはついてくる。被造物はいつかこの世から消える。人は、動物は去り、物質は朽ちる。大切にしているものでもなかなか長続きしない。一生死ぬまでずっと変わらないままであり続けるものなどひとつもない。変わりつづけるというのは大変です。楽じゃない。安定したい。けど出来ない。それがわたしたちです。
そういった中でわたしたちは生きるわけです。苦罪と赦しの中間で生きる。これこそが希望を信じて、今を忍耐し、栄光を待ち望みつつ生きるということです。信仰というのは、そういうものではないでしょうか。わたしたちは中々、完璧に生きることはできないものです。これは逃げなのか、言い訳なのか、本当は出来るのはないか、出来るはずなのにいいわけして、楽な方へ逃げているのか。そう自分や他人に言うことも出来ます。そういってね、ストイックに生きる。「ただ救いに向かって前進するのみ、だって救われたんだから。」それもひとつの信仰かもしれない。
でも出来ない自分を認め、しかしそれでも救われていることを信じ、そして時にその救いの約束を裏切り、その罪の深さにおののき、悲しみに打ちひしがれて、それでも御前に召し出されて、赦しの宣言を聞き、神さまの愛に震えるというのも、それも一つの信仰だと思うわけです。そして呻きながら生きるというのはそういうことなんだと思うわけです。安定している、迷いのない信仰生活に呻きはないと思います。わたしたちは呻く。それはつまり、悩み、苦しみ、迷い、それでも神さまと共に生き、救われているということだ。
呻きながら生きるわたしたちはいつでもここに帰ってきます。時に喜びの中、時に悲しみの中、時に怒りの中、この教会に帰って来る。神さまは、それを待っているし、喜んで、お帰りといってくださるわけです。赦しを頂いて、それぞれの持ち場へと戻りましょう。信じることの確かさと希望を頂いて、また人間の愚かさと、しょうもなさとまた愛らしさ、こんな人間を愛してくださっている神さまの愛を思い出して、そんな人間のために十字架にかかって復活し、わたしたちに救いと希望と栄光を与えて神の子としてくださったことを胸に刻みつけて、それぞれのところに帰りましょう。
2025年9月7日礼拝説教
