礼拝説教「分け隔てなく」

聖書箇所:創世記 24:62〜67、コロサイ 3:18〜4:1、マタイ 12:43〜50

 今日お聞きしましたコロサイの信徒への手紙、3章18節以降の箇所は「家族に対して」という小見出しが付いています。わたしたちは家族に対してどのようなふるまいであるべきなのか、どのように生きるべきなのかということが語られている箇所になるんです。
 コロサイの信徒への手紙の3章1節以降は、イエスさまに救われてキリスト者となったものはどのようにしてこの世を生きていくべきなのか、ということをテーマにして書かれているんです。いかにしてキリスト者としてこの世を生きていくのかということが書かれているんですね。
 なぜこの世においていかに生きるべきかということが書かれることになったのか、その理由は一つ前のコロサイの信徒への手紙2章にかかれているんです。

 2章はですね、短くまとめて言うと、こういったことが書かれていました。「あなたたちはすでに主であるイエス・キリストを受け入れたわけですから、イエスさまを信じたんですから、イエスさまに結ばれた歩みをしなければなりませんよ。イエスさまに救われた喜びにあふれて感謝を忘れずに、信仰をもって歩むんですよ。この世の教えや、他の宗教の教えに耳を傾けてはいけませんよ。」こういうことが書かれていたんです。
 皆さんはイエスさまに救われてキリスト者となったわけなんだから、世の教え、他の宗教の教えではなく、神の教えに従って今この世を生きなければいけませんよということが2章で語られ、それを踏まえて、では具体的に、神の教え、キリストに結ばれた生活というのは一体どういうものなのかということが3章でひとつひとつ書かれていくわけです。
 そして今日の箇所はその世における生活においてなすべきことがらのひとつとして「家族に対して、キリスト者はどうあるべきか」ということが書かれているということなんです。

 いかにキリスト者は生きるべきなのかという指針、方向性が、このコロサイの信徒への手紙には示され、書かれているというわけなんですが、「あなたたちはこのように生きなさいね」と言われるということはつまり、この手紙の送り先であったコロサイの教会の人々は、神さまの教えに従わずキリストに結ばれた生活をしていなかったということなんです。この世の教えや他の宗教の教えに耳を傾けてはいけないという助言にも表されているとおり、このコロサイの教会には聖書の教えとは異なる教えが入り込んでしまっていました。その教えというのは「グノーシス」という教えです。

 このグノーシスという教えは一体どういう教えなのか。このグノーシス、色々と複雑で、様々な形態がある教えなので、なかなかすべてを説明しきることが難しいんですけれども、一言で言ってしまえば、グノーシスとは「わたしたち人間こそ神である」という考え方なんです。
 人間は、本来は完璧な存在であって神の一部として存在していた。しかし今の現実はそうではない。全てのものは朽ちて滅び、人間は老いて死ぬ。それはつまり、この世は間違っているということだ。わたしたち人間のいる世界は間違っていて、本来の居場所に帰らなければいけない。本来の居場所に帰るということはどういうことか、肉体の死によって滅びゆく肉体に閉じ込められた魂を解放する。バリエーションがいくつもあるんですけれど、大体はこういう教えです。
 万物が朽ちるこの世を否定し、この人間の肉体を否定し、朽ちることのない魂、見えないもの、考え方を大事にする。それはつまり、この世を創造された神さまの御業を否定するということであるわけです。わたしたちは愛をもって神さまによって創造されたということを信じているわけですけれど、この世が不完全で否定されるべきものであると信じる人たちにとっては、キリスト教の神というのは不完全な創造しかできない、格下の神であるわけです。
 こうやって聞くとグノーシスはキリスト教とは相反するまったくかかわりのない考えではないかとなるわけですれど、実は案外そうではなく、一部のひとたちがこのように考え、教えるようになっていったんです。「主イエス・キリストは、この世界からわたしたちを救済するために、(グノーシス側の言葉でいうなら)不完全なこの世界からわたしたちが抜け出すために本当の神から遣わされた使いのものなんだ」つまりグノーシスの考える完全な朽ちることのない魂となって本来の居場所に変えるためにやって来たお方が、イエス・キリストだと彼らは考えた。イエス・キリストを信じ、正しい知識を手に入れることによって本当の救い、魂の救済に与ることが出来る。そういう人たちが現れるわけです。
 そういったグノーシスという教えがコロサイの教会には入りこんでしまっていたわけなんですね。そこから、例えば天使礼拝、天上のものである天使も神と同等の者として扱うものや、キリスト教を哲学の一種として、学びとして、この世を生きるため、もしくはこの世を捨てるためのハウツーとして受け取ろうとするものや、肉体は結局は朽ちてなくなるものなんだからといって、肉的な欲望を満足させるため、自分の体を好き勝手に、自分の欲するままに生きようとするものが現れることになった。コロサイの教会に混乱がやって来るわけです。

 このグノーシスという教えの最も深刻な問題は、わたしたちが生きている今を否定してしまうということです。わたしの本当の姿は、今現在のわたしの姿じゃないんだ。本来であれば神的な存在として生きているわたしがいるんだとか。正しい認識や知識さえ手に入れれば、この肉体から解放されたときに救われるわけだから、知識さえ手に入れてしまえば、この世の在り方さえわかってしまえば、どのように今の人生を生きようともかまわないとか、今生きるこの時の人生を否定し、救いを求める、言ってしまえば現実逃避を続ける生き方になってしまうわけなんです。
 だからこのコロサイの信徒への手紙というのは、イエスさまに救われてキリスト者となったものはどのようにしてこの世を生きていくべきなのか、ということをテーマにして書かれているわけなんです。今を生きる、今をキリストに結ばれた生活として生きるにはどういったことが必要か。それが書かれているわけです。
わたしたちは救われて終わりではないわけですね。イエスさまの十字架と復活を信じて、罪を告白し、洗礼を受けて、キリスト者として今を生き、明日もこの世を生きるわけです。それはやはり、救われる以前の生き方ではないし、そういった救われる以前の生き方というのはもうできないはずなんです。もっと言えば、イエスさまを信じ、救われたことによって、明らかにわたしたちは、変えられたではないか。もうすでにこの世の理ではなく、神さまの理によって生きるようになったではないか。そういうことなんです。

 今日のコロサイの信徒への手紙の箇所を読んでいると、当時の認識、価値観と、今現在のわたしたちの認識とは、ずれがあるのではないか、そういう思いを持たれる方は多いんじゃないかと思います。今日のみ言葉というのは、当時の世界において意味を成す言葉なのではないか。そう思うかたがおられるかもしれないと思うわけです。
 当時の社会状況ということに関しては、事実そうだということが出来る部分があると思います。当時の世界では、女性、妻が服従するものというのは当然のこととして考えられていました。男性と比べて女性の権利というものは、現在とは比べものにならないほど制限されて、それこそモノとして扱われることもあった。女性、妻たちの置かれていた立場、身分は低いものであった。さらには奴隷という言葉が出てきます。当時の社会は奴隷の立場にいる人たちの数の力によって支えられていたわけです。奴隷たちの所有者、いわゆる主人と呼ばれるものたちは少数階級であって、奴隷という立場にいる人たちは社会になくてはならない階層として存在していました。つまり奴隷制というものが社会で当たり前のものとして受け止められていたわけです。そういう意味では確かに前提は違うわけです。

 では今日のみ言葉は、何を言っているのか。
 今現在、男女平等の時代だと叫ばれて、子どもたちは自由に働くことや学ぶことを選ぶことが出来、奴隷たちは解放されて自由に生きることが出来るようになった。それでもまだまだ問題は多い、聖書の時代と形は変わっても、人間の本質は変わらないじゃないか。社会の中において、奴隷という名前ではないけれど虐げられている人たちはいるし、格差問題、夫婦における問題、子どもたちの心の問題、問題というものは尽きることがない。だから、わたしたちは神さまに生かされているものとして互いに愛しあうんだ。互いに仕えていくんだ。
 もちろんそういったこともある。でもそれだけじゃないんです。今日の聖書は何を言っているのか。それは、わたしたちは神さまを信じることによって、本当の意味で「仕える」ものになるんだということです。そしてもっと言えば神さまを信じなければ、本当の意味で「仕える」ということは出来ないということです。
 当時の世界では妻が服従するものというのは当然のことであったと言いました。しかし神さまを信じることによって、キリストに結ばれた生活を知ることによって、仕えるということは、ただ力や立場によって強制されるものではないということを知ることになるわけです。神さまを知らなければ、ただ階級社会における当たり前の事柄として人は虐げられ、服従する、従うという意味において仕えることしかできない。妻はものとして扱われ夫に従い、子どもはただ家のために、国のために、約束された将来のために仕えることしかできず、奴隷たちは生まれながらにして、主従関係の中主人に仕えることしかできないわけです。
 しかし神さまを信じ、イエスさまと結ばれることによって、わたしたちは本当の意味で「仕える」ということを知るわけです。神さまによって創造されたものとして、また救い主であるイエスさまの愛を知るものとして、イエスさまが全ての人間のために仕えて御業を成し遂げられた恵み、救いを知る者として、仕えるということもう一度受け取りなおすことが出来るようになるわけです。イエスさまがわたしたちに成し遂げてくださったのは、まさに究極の奉仕であるわけです。私たち人間の罪を贖うためにどこまでも仕えてくださった十字架と復活という御業です。そのようにしてわたしたち一人ひとりに分け隔てなく仕えてくださったお方がおられるのだということを信じて、仕える。その生き方に生きることが出来るようになるわけです。神さまの愛によって仕える、愛によって仕え合う、それはまさにキリストに結ばれた生活を送ることが出来るようになるということであるわけです。妻も夫も、互いに愛をもって信頼し仕えあることが出来、また子どもたちは神さまとつながり、まさに健やかに育まれ大人になり、わたしたちは子どもたちの成長を喜び、祈り生きることができる。また世の働きにおいても、上のものに仕えることを、まさに神さまから与えられた役割、恵みであると受け止めて生きることが出来るようになるわけです。そしてそれだけでなく、神さまを知らないものたちが織りなすこの世の意味において仕える、従う世界に対して、本当に仕えるということはこんなにも喜びに満ち溢れたものなんだということを、神さまに仕え生きる生活の中で示していくということになるわけです。本当に仕えるというのは人の業ではない。神の業なんだ。そのことをこのわたしという体をもって今、生きることで世に表していくわけです。
 そしてその中心、神さまの愛によって仕える生活、キリストに結ばれた生活の中心こそ礼拝であるわけです。わたしたちは神さまと通らなければ本当の仕えることを知っている生活に行くことは出来ないわけです。それはキリスト者であっても変わらない。現にコロサイの教会の人たちは神さまに仕える生活を忘れ混乱の中に陥ってしまった。
 わたしたちは常に聖書の言葉に聞き、神さまに祈りもとめ、賛美を捧げ、礼拝を捧げることによって、神さまと、また隣人に仕えるものに変えられていきます。愛をもって神さまに仕える、隣人に仕える人生というのはわたしはすばらしい人生だと思う。それは誇らしいとか、良いことをしているとか、そういう意味だけですばらしいといいたいわけではない。ありがたいと思うわけです。
 イエスさまに結んでいただいた生活によってわたしたちは人を愛し、信頼し、仕えることが出来るわけです。真心を込めて、公平に人と生きようとなる。神さまと生きなければ、それこそ、自分が神である、わたしはそういう存在だと確信し、疑いもしない生き方しかできないわけです。そのような生き方で、どうして、独りよがりではない愛を人に向けることが出来るでしょうか。どうして人に感謝できるでしょうか。
 わたしは神さまを誇りたいと思います。イエスさまに感謝したいと思います。ただただ与えられた恵みを感謝し、神さまと隣人に仕えて、神さまに栄光をお返しする、その歩みに生きたい。そのようにわたしたちは生かされているわけです。感謝をもって祈りを捧げたいと思います。

2025年8月31日礼拝説教