礼拝説教「恐れをこえて」

聖書箇所:ヨナ 3:1〜5、使徒 9:26〜31、マタイ 9:35〜10:16

 今日お聞きしました使徒言行録の9章26節からの箇所は、パウロがイエスさまと出会って回心した、その後の歩みが書かれているところになります。キリスト者と教会を迫害していたパウロがイエスさまと出会い回心に至る。その物語は使徒言行録の9章1節から書かれていました。 この時点ではパウロはサウロという名前で、キリスト者と教会を迫害するものでした。そして主の弟子たち、イエスさまを信じるものたちを脅迫し殺そうと意気込んでダマスコという街に向かっていました。この時、回心の出来事が起こったわけです。
 突然、天からの光がサウロの周りを照らし、その光を受けてサウロは地面に倒れました。そして声を聞いたのでした。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。声を聞いたサウロは「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、その声の主はこう答えたのでした。「わたしはあなたが迫害しているイエスである。起きて街に入れ。そうすればあなたのなすべきことが知らされる」。声の主はイエスさまであったわけです。このイエスさまの声を聞いた後、サウロは目が見えなくなってしまいます。サウロは一緒にダマスコに向かっていた者たちに連れられてダマスコに向かいますが、この出来事から三日間目が見えず、食べることも飲むことも出来なくなってしまった。
 そのような状態になっているサウロの元にある人が訪ねてきました。イエスさまの弟子であるアナニアという人です。彼もまたイエスさまの声を聞いたものでした。「『直線通り』と呼ばれる通りに行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねなさい。このサウロという者は、お前がやって来て手を置き、今見えなくなっている目を元通りに見えるようにしてくれるのを待っている」。そのようにアナニアに対してイエスさまはお命じになったのでした。
 この声を聞いたアナニアは驚くわけです。そしてイエスさまに問いかけます。主よ、わたしはその名前を知っています。そのタルソス出身のサウロという者がキリスト者に対し、教会に対し、何よりもあなたに対し何をしたかたくさんの人から聞きました。このダマスコにサウロが来ているということは、それはわたしたちを捕らえるために来たということではないでしょうか。そのようなアナニアの問いに対してイエスさまはこう言われました。行きなさい。「あのものは、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。」
 イエスさまはサウロを伝道者として、イエスさまの名前を伝えるものとしてお選びになったと。だから行ってその者の目を見えるようにしてきなさいと、そうアナニアに命じ、アナニアはその言葉通り目が見えない状態でユダの家に運びこまれたサウロの元を訪ねその目を開き、洗礼を授けたわけです。

 目が開かれキリスト者と教会を迫害するものからイエスさまを主と告白するものへと変えられたパウロは、すぐに会堂に行ってイエスさまとの出会いを、イエスさまこそわたしたちの主なるお方であるということを宣べ伝えはじめます。このことは周囲に大きな驚きを与えました。どちらにとっても衝撃的な出来事でした。
 ユダヤの人々は、今まであんなに多くのキリスト者が悪事として捉えるような迫害を熱心に行っていたあのサウロが。どうしたことか迫害されている側のキリスト者になってイエスを主であると言っている。どうなってしまったんだ。サウロお前がダマスコに来たのはキリスト者を捕らえてエルサレムに連れていくためではなかったのか。
 同じようにキリスト者たちも驚きであったわけです。あれだけの苛烈な迫害を行っていたあのサウロが、イエスさまと出会い変えられ、この方こそ真の救い主であると会堂で告白している。このように驚きをもって受け止められたわけです。
 しかし、それで話が終わることはなかったわけです。イエスさまこそ救い主であるということをあちこちの会堂で宣べ伝え、ユダヤの人々と議論を始めたサウロは当然、彼らにとって裏切りものとなったわけです。ユダヤの人々はサウロを殺そうとします。ダマスコの街の城門で日夜待ち伏せ、サウロが通りかかったら殺そうと企むのでした。そこでサウロは、すでにダマスコの伝道活動で主を信じるものとなった弟子の助けを借り、かごを使って脱出を図り彼らの企みを交わしたということなんです。

 そして今日の箇所にやって来るわけです。ダマスコを逃れたサウロはエルサレムへとやってきました。なぜエルサレムへとやってきたのか。それは十二弟子の仲間に入れてもらうためだったんです。この時エルサレムは7章の最後に書かれていたステファノの殉教をきっかけに起こった迫害によって、多くのキリスト者たちがエルサレムを離れてしまっていました。しかし8章1節にあるように十二弟子たちはエルサレムに残っていたんです。サウロはその使徒たち、十二弟子に会いに行って仲間に加えてもらおうとしたわけです。
 しかしそのサウロの希望は、そう簡単に叶うものではなかったわけです。26節にはこのようにあります。「皆は彼を弟子だとは信じないで恐れた」。
 当たり前の話であるわけです。今までも何度か触れていますけれどサウロはキリスト者と教会を迫害する者でした。そして、そのサウロの行いを彼ら十二弟子たちは見ていたわけです。サウロはステファノの殉教の際、直接ステファノに手を下すことはしなかった、石を投げて撃ち殺すことはしなかったんですけれども、石でステファノを撃ち殺す人たちの上着を預かる役目を担っていました。そしてそのあとの迫害においてはまさに中心的役割を担っていたわけです。キリスト者を捕らえ、教会を打ち壊した。それを使徒である十二弟子たちは見ていたわけですね。
 そのような迫害をしていたサウロが使徒たちのもとにやって来て「どうかわたしを仲間に入れてはもらえないでしょうか。わたしはイエスさまと出会って回心したんです」といったところで、信じてもらうことは難しかったわけです。迎え入れて油断したところでまた迫害をするのではないか。そういった疑いの目、また恐れの目を向けられたわけです。ここで詳しくは書かれていませんけれども、サウロは当然そのことを覚悟していたと思います。この聖書の出来事だけをなぞっていくと、回心し、イエスさまを宣べ伝えることになり、そのことで今まで仲間であったユダヤの人々の反感を買い、殺害する計画まで立てられて、そしてエルサレムにやって来た。そう書いてあるように見えるわけです。

 では、ここに書いてないからといって、サウロは今まで自分がやってきたことを無かったことにしてやってきたのか。そうではないと思います。イエスさまを信じて、回心の出来事を通して、それこそ能天気に「もう信じたわけだから今までのことは忘れて全てを水に流しましょう。イエスさまがわたしの所に来て、わたしを信じるものになりなさいと言って御業を見せていただいたんです。だからね、もう大丈夫!みんなのこと殺さないから仲間に入れてよ!」ってそう使徒たちの所にやって来たのかといったらそうではないはずなんです。たとえ、主がわたしの罪を赦したとしても、それでも彼らはわたしのやったことを忘れるはずはないし、そう簡単に赦すはずもないし、わたしもイエスさまを信じたことで、多くの人の命を奪い、教会を破壊したことを忘れていない。今もその手の感覚が残っている。サウロはそう思っていた。
 むしろ信じた後、イエスさまと出会った彼はその思い強くしていたのではないか。自分のやってきたことがまったく神さまのためになっていないということをキリスト者として生きる一瞬、一秒、一分、一日、時を進めていく毎に思い知っていくわけです。サウロは熱心なユダヤ教徒でした。その熱心さゆえユダヤ教の教えを批判し、律法を守ることで人間は救われないとするキリスト教と対立し、攻撃したわけです。十字架にかかって死んだあのイエスが復活し今も生きているなんてそんなことがあるわけがないではないか。しかし、そうだった。イエスさまは確かにおられた。復活したイエスさまはその御業をもってサウロに本当のことを伝えられたわけです。それによって、サウロは自らの罪に向き合うことになった。「イエスさまを信じ、確かにわたしはイエスさまによって救われ、イエスさまの十字架の死によって罪が赦され、復活の命に与るものとなった」その命に生きれば生きるほど、自分が何をしてきた人間かということがはっきりと示され、自分の罪を、罪の記憶を思い起こすことになるわけです。
 そういった状態で迫害していた相手の所に行き仲間にしてほしいというわけです。これは簡単なことではなかったはずです。しかしサウロは恐れをこえて彼らの元に、エルサレムに向かったわけです。今までの立場を捨て、かつての仲間から命を狙われるようになり、今まで迫害していたものたちのところへ行く。それはもしかしたらすべてのものが敵になることかもしれない。今までの仲間、そして今まで迫害してきた相手、すべての人がその矛先を向けてもなんらおかしくない。そのような状況にあって、サウロは主にすべてを委ねた。
 何がそうさせたのか。神さまがそうさせたわけです。神さまが確かにお前を伝道者という器として用いると宣言してくださった。自分の犯した過ち、消すことの出来ない過去、それらを全てわかった上で、神さまはわたしたち人間を、愛するものとして用いられるわけです。そしてそのとおりサウロを用いた。
 恐れつつすべてを主に委ねたサウロと、恐れの目を向ける使徒たちの間を取り持ったのはバルナバという人でした。彼は使徒言行録の4章36節に登場します。自分の畑を売り手に入れたお金をすべて教会に献金したという、とても信仰深い人です。このバルナバという名前は本名ではなくあだ名です。実際はヨセフという名前でした。なぜバルナバという名前となったか。バルナバは慰めの子という意味です。バルナバの生き様、信仰の歩み。それがまさに慰めを知っているものである。慰めがどこからやってくるか知っているものであるというわけです。神さまから与えられている本当の慰めを知っている者、慰めを受けて生きているもの、それがバルナバであるわけです。そのバルナバが、双方の間に立ってとりなしをした。サウロの恐れ、そして使徒たちの恐れ、その両方の恐れを取り除いて和解をもたらした。それはどちらにも、バルナバを通して神さまが働かれたということです。慰めの子という名前の通り、神さまが互いの恐れを取り除き、慰めを与えてくださったということです。

 わたしたち人間というのは、未来を見ることは出来ません。確かな未来を見ることが出来るのは神さまだけです。もし未来を見るとしたら、また現在を見つめるとしたら、わたしたちは過去を見ます。つまり予測を立てるわけです。この人はどんな人だったのか。どんなところに生まれ、育ち、どういった環境を経て、何をして、何をせず、今ここにいるのか。それをもとにして、現在を、そして未来を見るのです。そういった見方をするならば、わたしたちはきっとサウロのようなひとを恐れることなく和解する、受け入れることなど出来ないと思います。いつ、過去の罪を犯した時に戻り、牙を向くかわからない。悔い改めなど信用できない。人は平気でうそをつく。陰でどんなことを言って考えているかわからない。未来はわからない。いくらでも理由が出てきます。
 しかしイエスさまを信じるものは、イエスさまを信じ生かされているものは、そうではなくなるんだと聖書は言うんです。サウロは、使徒たちは、そしてわたしたちはその身をもって知っているはずなんです。神さまの恵みは、慰めは、恐れを、疑いをこえるんだ。自分自身のこの身をもって知っているはずなんです。過去は消えない。誰に何を言ったか。何をしてきたか。自分を、他人を、神さまを、どのように扱ってきたか。それはもう変えることは出来ない。何をしてきたか自分がよくわかっている。しかしそれでも、そんなわたしでも、神さまによって、この礼拝で救いの宣言を頂くことによって、新しく生まれかわる。それを赦されている。
 わたしたちは誰かを赦すことが出来ないかもしれない。また自分自身を赦すことが出来ないかもしれない。でも、神さまはあなたを赦します。赦してくださるんです。
 この救いにわたしたちは生かされています。この救いよってわたしたちは慰められるわけです。最後の三十一節はサウロと使徒たちが出会ったあとに教会がどのように広がっていったかが書かれます。神さまによる救いに生きる人々は、教会は平和であるわけです。神さまによって既に互いに和解し、慰めの元に生きているからです。そして主を正しく畏れます。恐れを取り去り、慰めを与えてくださる神さまによって我々は救われている。それは人間ではとても出来ないことだ。神さまを正しく畏れるわけです。そして聖霊の慰めをうけます。こうして礼拝によって、聖書のみ言葉に聞くことによって、祈ることによって、賛美によって、わたしたちは確かに神さまに生かされているものだという確信を頂くと共に、平安と慰めを頂くのです。そういった恵みに満ち溢れ、その恵みを頂くことの出来る場所がここ教会であるわけです。感謝を神さまに捧げたいと思います。わたしたちでは出来ないことを、神さまは確かにその独り子の命をもって、成し遂げてくださったのです。

2025年8月17日礼拝説教