礼拝説教「差し出された主の手を共に」

聖書箇所:ホセア 6:1〜6、コリント(二) 5:14〜6:2、マタイ 9:9〜13

 今日お聞きしました新約聖書、コリントの信徒への手紙(二)の5章14節からの部分には「和解させる任務」という小見出しがついています。
「わたしたちには、神さまから与えられた任務があるんだ」そうこの箇所でパウロは言うんです。それはいったいどういった任務なのか。わたしたちは神さまから、神さまと人間とを和解させる任務を頂いているんだ。そのようにパウロはわたしたちを含めて手紙を読んでいるすべての人々に向けて呼びかけている。そういう箇所になるんです。
 この手紙はコリントの信徒への手紙とあるように、コリントという街にある教会に向けて書かれた手紙です。このコリントの教会にはいくつかの問題がありました。パウロが彼らに向けて手紙を書いて助言しなければいけない、そうなるような、いくつかの問題があった。
 先月みなさんとお聞きしたコリントの信徒への手紙(二)の9章は、エルサレム教会への献金について書かれた箇所でした。援助を必要とするエルサレムの教会に対してコリントの教会が献金をしようと計画した。しかしそれが中々進まない状況に陥っていた。そのことを聞いたパウロは、迫害にあって苦しみと貧困のなかに身を置きながら、しかし神さまに喜びをもって仕えてエルサレム教会への支援を惜しまなかったマケドニアの教会の人々のことをコリントの人々に紹介した。そういった箇所です。パウロは神さまと共に歩む喜びは、人に惜しまず施す豊かさをももたらすんだ。だから神さまによって救われすでに必要に満たされている人生を歩んでいるあなたがたも、ぜひその豊かさと喜びに共に生きよう。そうコリントの教会の人々に呼びかけたわけです。

 今回の箇所の背景にある問題はそれとはまた違ったものになります。コリントの教会を悩ませていたいくつかの問題のうちのひとつ。それはいわゆる偽教師の問題でした。
 パウロが去ったあとのコリント教会にパウロがコリントの人々に伝えた聖書の教えとまったく違う教えを伝える人々、偽教師たちが教会にやってきたんです。この偽教師たちはこのようなことを言う人たちでした。「パウロの教えは間違っている、その教えを捨てなさい」そしてこのようにも言うわけです。「パウロという人間がどのような人間であったかを思い出しなさい。彼はわたしたち教会を迫害してキリスト者を殺した人間だ。彼は今熱狂的とも言えるような姿で伝道をしているけれど、本質はそう言った人間なのだ。しかも、ユダヤ教の教えに必要な割礼や律法などはもう必要ないと言ってイエスさまの十字架と復活さえ信じれば誰でも救われると説いている」このように彼らは言ったわけです。つまりこの偽教師たちはユダヤ教の影響を強く受けた「ユダヤ化主義者」たちであった。そういった偽教師たちがコリント教会にやって来てパウロが教えたことを否定し、新たな教えを持ち込み教会を混乱に陥(おとしい)れていたわけです。
 しかし彼らは偽教師と言っても教会から使徒として推薦状を書いてもらえる人たちでした。初代教会、この当時の聖書の世界にある教会のなかでも、ユダヤ教の影響を強く残していたとされるエルサレム教会、つまりイエスさまの直弟子のペトロやヨハネから教えを受けた教師たちではないかとも考えられている。そういう人たちだったんです。なので彼らは、わたしたちは推薦状をもっている正式な使徒である。そう言ったわけなんですね。つまり彼らはその推薦状というものを正しさの根拠として教えを説いていた。もっと言えば権威を盾にして教えを説くもの達であった。彼らと違って、パウロは推薦を受けることも、また使徒から指導をうけることなく、キリスト者となり伝道者となったものでした。たしかに考えてみれば、パウロは以前には教会を迫害していたものであったわけです。使徒言行録にも書かれているように他の使徒たちから恐れられていた存在でした。教えを受けて、推薦状をもらって使徒としての働きに仕えるというのは難しかったかもしれません。
 そういったこともあってコリントの教会の人々の中にこういったことを言う人たちが出てくることになったわけです。パウロが使徒だというのは自称なのではないか。正式なものでないにも関わらす使徒と名乗り、自らで考え出した教えを伝えているに過ぎないのではないか。そういう人たちがコリント教会の中に出てくることになったわけです。そのような背景があってこの5章は書かれました。たとえ推薦状を持っておらず使徒からの教えを受けていないものであっても、神さまはわたしの全てを知っている。わたしの言っていること、行っていること、それが神さまの御心に適っているものなのか神さまが知っている。そのありのままをあなたがたコリントの教会のみんなにも知ってもらいたい。そのように言って始めるわけです。自分の内にある信仰や、この教えを語るに至った人生、神さまとの出会い、そういった内にあるものではなく、誰から教えを受けたであるとか、推薦状を持っているとか持っていないとか、そう言った外面的な事柄を問題にし、あるいは誇り、自分の教えが正しいと主張する人々とは違って、わたしはただただ、神さまのため、そしてコリントの教会に連なるお一人お一人のために仕えているものなのだ。そうパウロは言うんです。
 なぜ、そのようにただただ謙遜に生き、自らの生まれや今の自分の立場を誇ることなく、神さまに仕え、教会に生きる一人ひとりに仕えているのか。
 それはただ、イエスさまの愛があるからなんだ。イエスさまの愛がわたしをそのように生きさせる。イエスさまの愛が神さまにただ使える人生へと駆り立てるのだ。十四節にはこのようにあります。「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」

 今日の聖書箇所はパウロの神さまへの思い、信仰の言葉であふれています。パウロはこういうわけです。もはやわたしのために人生があるのではない。自分が何かを成し遂げることによって満たされる人生。自分が欲しかった何かを手に入れることによって満たされる人生。つまり自分という偶像、この世という偶像に縋って生き、罪に生きていた人生。そのような人生を生きるためにわたしたちが今、生きているのではないんだ。そんな自分は、罪に生き、罪を選び、罪を喜び、生きていた自分は、もうすでに死んだんだ。そういうんです。
 「わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んでくださった方のために生きることなのです。」
 イエスさまの十字架によって、神さまに背き自分自身を何よりも大切にして、大事な仲間を、家族を、神さまを、そしてそれによって自分自身をも傷つけないがしろにしてきた自分は死んで、本当に大切なものが与えられる人生を生き直すことが出来るようになったのだ。そのために、世にある罪から離れ神さまと共に生きる喜びの人生を生きるために、一人の方が、救い主である主イエス・キリストが、十字架にかかってくださりわたしたちの代わりに死んでくださったのだ。だから今キリスト者となって生きているわたしたちが歩んでいる人生というのはもうわたしたち自身の人生ではない。この命を新しく生まれ変わらせ、さらに永遠の命と復活とを与えてくださった神さまのために捧げる人生なんだ。その人生を生きているわたしたちは、この世の理で、価値観で、常識で、空気で、もうこの世界を見ることはない。みんなはどう考えているんだろうか。洗礼を受けてから、人生は、世界は、変わったのではないだろうか。礼拝、聖書、祈り、賛美、キリスト者として生きていくなかで日々その意味を知り、感動し、感謝し、喜びをもってそのことを受け入れるようになったのではないか。パウロは言います。わたしは変わったんだ。他でもない神さまによって変えられたんだ。
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」

 イエスさまがわたしたちを神さまと再び生きることが出来るようにと、その愛をもって命を捧げられた十字架によってわたしは変えられた。新しくつくりかえられた。みんなもそうなのではないだろうか。このイエスさまの十字架、そして復活が確かであるということを確信しているなら、わたしたちは感謝せずにはいられないのではないか。その感謝の思いを持って生きていくことをしないなんてことがあるだろうか。そんなことはありえないだろう。時に悩み、時に疑い、時に迷う。それでも神さまは愛していてくださった。過去を振り返れば散々ひどいことをしてきた。いやなことを言った。振る舞った。人を笑い、蔑み、悪口を言い、人を呪い、自分は正しい人間だ、悪いのはあいつらだと言い張った。そんなわたしたちを神さまはそれでも救いたいと言って下さった。神さまは十字架の御業によってわたしたちの罪を赦し和解してくださった。そして今があるんじゃないのか。パウロはそう言うわけです。そして赦され、救われ、それでわたしたちの人生は終わらないというわけです。神さまが和解してくださったことによって新しい任務が与えられた。言い換えるなら、キリスト者となったものには神さまのために働かなければならない。それは人と神との和解のために働くもの、救われた喜びを語る者となりなさいということです。
 「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。」
 
 イエスさまの十字架によってわたしたちの代わりに十字架についてくださったお方がいるから、わたしたちは神の子としての救いの約束が与えられた。そのことを忘れることなく語るのだ。それは言葉だけではない。誰かに教会に行こう、礼拝に行こう、わたしは本当に感謝している、それを誰かに伝えるだけでなくからだでも語るのだ。礼拝を捧げ、祈り、賛美し、聖書を読み、日々新たに創造された日々を生きるのだ。そのようにしてからだにおいても語る。聖書は言います。そのようにして神さまは、神の協力者としてわたしたち一人ひとりを選んでここに召し出してくださったんだ。そう言うんです。神さまが差し出してくださったその御手を取ったわたしたちは、喜びをもって、神さまと共に歩む、また神さまを信じ、和解したもの達と共に歩む人生を歩んで行きたいと願います。
  
 「わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、「恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた」と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」
 今ここで礼拝を捧げているということ、それはわたしたちは確かに神さまの恵みを受け取り、その恵みの中を生きているということであると思います。確かに救いに続いている道を歩ませていただいているということであると思います。
 神さまは悩み、苦しみ、不安、過去、未来から、わたしたちを今ここへと招き、確かにあなたを助け、導き、そして世界のはじまりのはるか昔から、また世界が終わる最後の時まで共にいて、愛をもって救い続けると確かに宣言してくださっています。いつもわたしたちにその救いの御手を差し出してくださっている。感謝をもって、神さまが委ねてくださった和解の言葉をもって、あなたを信じますと言う言葉をもって、その御手を一緒にとりたいと思います。そして新たに創造された神さまと共に歩む人生を一緒に歩んでいきたいと願います。

2025年8月10日礼拝説教