礼拝説教「憐れみの器」

聖書箇所:創世記 21:9〜21、ローマ 9:19〜29、マタイ 8:5〜13

 今日お聞きしましたローマの信徒への手紙の9章は、ユダヤの人々、旧約聖書を信じて生きている人々の救いをめぐってのお話なんです。
 旧約に生きている、ユダヤ教を信じている人々には、新約に生きている人々、イエスさまを信じている人々に対して、どうしても納得のいかないことがあったんです。それは何かというと、イエスさまの十字架と復活を信じるものこそが神さまによって救われるのだということ、まさにキリスト教の福音そのものですけれども、これに彼らは納得がいっていなかったと言うんです。どう納得がいっていなかったのか。彼らはこう思っていたんです。「イエスさまの十字架と復活を信じることによって「のみ」、救いが約束されるのであれば、我々の先祖が出エジプトの時に主なる神さまと約束したことは一体なんだったんだ。今まで先祖が代々聞き従ってきた、律法や救いの出来事を伝える祭りや礼拝は全くの無意味であったのか。そんなはずはない。」そう思っていた。 

 したがって、ローマの信徒への手紙にはパウロが熱のこもった熱い思いがたくさん書かれているわけですけれども、そういった思いやイエスさまの福音をユダヤの人々にぶつけたところで彼らの反応は芳しくなかったわけです。それどころかパウロに対してさまざまな疑問を投げかけて議論を持ちかけた。従わなかった。反抗した。そういったやり取りが繰り広げられているのがローマの信徒への手紙9章なんです。

 9章はユダヤの人々の質問から始まります。「イエス・キリストという神の子が十字架にかかり復活したことによってすべての人が救われるというのであれば、わたしたちの先祖が聞いてきた神さまの約束の言葉は意味のないものになってしまったのか。神さまとの約束は無効になってしまったのか。」このようにユダヤの人々はパウロに問いを立てたんです。それに対してパウロは約束いまだ無効になっていないと返します。なぜなら神さまの約束を受け継ぐものは、イスラエルの民だけがなるものではない。血のつながりや、どこに生まれたのかによって神さまの約束を受け継ぐものは決められるわけではない。つまり、神さまの救いにあずかるものはいるが、ユダヤの教えに従う人、つまりイスラエルの民、ユダヤ人だけが神の救いにあずかるということではないとパウロは言うわけです。聖書でいうところの「異邦人」として生まれたとしても、神さまを信じ、示された救いに生きるものであれば、神さまの約束を受け継ぐものなんだ。むしろ生まれを抜きにして、ただ信仰によって神さまに生きるものこそ救われる。そして、パウロはそういった神さまの約束を受け継ぐものを、はじめから神さまは選び分かち、恵みと祝福をあたえることを定められているんだ。旧約聖書にもそう書いてあるではないか。と言うわけです。
 それに対してユダヤの人々は返します。救いに与るという約束が神さまの選びによって最初から決められているのなら、我々に対して行った契約、つまり救いは律法を守ることであたえられるとされるということはなんなんだと言います。はじめから救いを与えること人が決められているなら、わたしたちが律法を守る、守らないというのは関係がない話になるではないか。神さまは我々をだましたのか。そうパウロに言った。それに対してもパウロは答えます。神さまはユダヤの人々に嘘をつき約束を破ったのか、決してそうではない。神さまは、憐れもうとするものを憐れみ、頑なにしようと思うものを頑なにするのだと、これも旧約聖書の言葉を引用します。神さまが約束を破り、勝手に契約の内容を変更することはない。神さまの恵みというのはわたしたちの側に選ぶ権利があるのではなく、ただ一方的に与えられるものなのだと言うわけです。つまり、律法を守ったからわたしたちは救われるのではなく、救われるために神さまが恵みをもって憐れんでくださるのだと言うんです。そしてそういった神さまに対して、頑なになって背を向け、約束を破り、罪を犯してきたのはユダヤの人々のほうだというわけです。
 そのパウロの答えに対してユダヤの人々はさらにこのように返しました。神さまのご意思によって人間が憐れみに生きるか、頑なにいきるか定められるというならば、そのようにされた責任は神さまの方にあるのではないか。神さまがその意思によって我々を頑なにされるなら、その神さまの選びに我々は逆らうことはできない。だからわたしたちは神さまの責任によって逆らってしまっている状況なんだ。神さまが選びそうさせるなら罪をおかすのは仕方のないことだ。パウロの返答に対して、ああ言えばこう言うみたいな返答をユダヤの人々はし続けたわけです。

 その返答で、パウロはとうとうお前たちはなにを言っているのだと言いだすわけです。神さまに造られた被造物でしかないものがどうして創造主なる神さまに口答えをし責任を転嫁できるのかと。イザヤ書の焼き物師の例えを使って表したわけです。神さまにはその自由な選びによって、ある者を選び、ある者を選ばない権利がある、それに対して人間が文句を言ったり、あまつさえ神さまを非難することはできない。そういうわけです。パウロは、神さまが我々を救うか救わないか、選ばれているとそう言います。しかしそれはパウロは残酷な現実であると言ってユダヤの人々に突き付けるわけではないんです。むしろ希望として語ります。パウロは次々と疑問を投げかけてくるユダヤの人たちに対して、屁理屈ばかりいうものはもう滅びるがいいとは言わず神さまに立ち帰るんだと言うんです。悔い改めてみんな救われて欲しいんだ。イエスさまの救いにあずかって欲しいんだと、パウロはそう思っているわけです。神さまは信じ、立ち帰るものを滅びには定めておられない。つまり神さまを信じるものは救われる。パウロはそう言うわけです。
 そう言った思いがあらわれているのが22、23節になるわけです。「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう」
 ここで言われていることは、神さまは一方である人々を怒りの器として造りその人を滅ぼすと定めて、もう一方である人々を憐れみの器として造り、その人を救うと定めているんだということではないということです。パウロは何を言いたいか。怒りの器として滅びることになっていたものたちを、神さまがその愛と恵みのゆえに、その者たちの罪を耐え忍んでくださったんだ。そう言いたいわけです。

 ここにある「耐え忍ぶ」という言葉は「持ち運ぶ」という意味を持っています。神さまは怒りの器となってしまった人々を、忍耐して持ち運んで下さっているんだと言うんです。どこへその怒りの器となってしまった人々を持ち運んで下さるのか。ある先生は、その答えはローマの信徒への手紙の2章4節に書いてあると言います。「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことをも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」。神さまの憐れみ、そして愛と忍耐は、滅びるべき怒りの器と者たちを悔い改めへ、イエスさまを主と告白し、神さまとともに生きる信仰と救いへと持ち運んでくださるわけです。

 パウロは怒りの器となってしまったものたちに対して神さまは忍耐されている、しかも、その忍耐を苦しみながら、同時に愛をもって行ってくださっているんだというわけです。だから悔い改めをもって、神さまに近づいていこうではないかと、神さまにしがみつき、神さまにすべてを委ね、悔い改めの先にあるイエスさまの十字架と復活の救いに与ろうではないか、そうユダヤの人々にパウロは呼びかけているわけです。そしてパウロは24節でこう言います。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」。神さまは、元々選ばれた民であるユダヤの人たちにとどまらず、異邦人をもその憐れみの器として召してくださり救ってくださる。それはわたしたちが何事かを成して獲得したものではなく、ただ神さまの一方的な恵みによるものなんだ。その恵みに与ることを神さまは選んでくださった。そしてわたしたちが選ぶことを忍耐しながら待っていてくださったんだ。つまり、わたしたちの側からはこのひとは選ばれ、このひとは選ばれないと判断することは出来ない。神さまはどのような人間をも、たとえ、わたしたちから見て神さまからおよそかけ離れていると思われるようなでさえも、つまり怒りの器としか思えないような人でさえも、神さまは選び召し出して救いにあずからせて下さることが出来るんですね。ユダヤ人とて生まれるものしか救われない、律法を守ったものしか救われない。そういった血や行いによって、人間がわかる形で、あの人は救われる、救われないとわたしたちが断言できる形で、神さまの御業は行われないのだとパウロは言うんです。
 このことをパウロ自身が一番よくわかっているわけです。パウロは回心するまではまさに怒りの器としての歩みをなしてきました。たくさんの人を迫害し、命を奪った。神さまの怒りを浴び、破壊されるものでしかなかったわけです。しかしそのようなパウロも神さまによって救われた。パウロは、神さまが私を救うために私の罪を、怒りの器として歩みを耐え忍んでくださっているということに気が付いたわけです。
 そして25節以下でもパウロは旧約聖書の言葉を引用していきます。26節はホセア書2章からの引用になります。ホセア書には、イスラエルの民が主なる神さまから背き、離れ、バアルという他の神々を礼拝する罪を犯したと言うことが書かれています。そのために、もはや神の民ではないと捨てられる滅びが預言されていた。しかしながら、神さまの愛によって回復されて、イスラエルの民を「わたしの民」「愛された者」「生ける神の子ら」と神さまが呼んでくださるという、そういった預言もホセア書には書かれているんです。一時は滅ぼされるべきものとして語られるイスラエルの民を、神さまは赦し、裁きから神の民へ回復する、そう宣言するわけです。そこにはただ神さまの愛によってイスラエルの民が回復されるという恵みが書かれている。神さまから離れ、他の神々を信仰するという怒りの器となってしまっているイスラエルの民を神さまが憐れみの器へと変えて下さる恵みが語られている。そのことをパウロはここで引用しているわけです。
 続く27、28節でパウロはイザヤ書10章20〜23節の言葉を引用します。これは、神さまによって選ばれて、残された「残りの者」だけが、生き残る、救われるということを語っている箇所になります、また29節でもイザヤ書1章9節が同じ文脈において引用されています。主なる神さまが救われるものを残して下さらないのであれば、わたしたちは創世記に出てきた、ソドムやゴモラのように滅ぼされてしまうしかないものであると語られている箇所であるわけです。これらいくつかの旧約聖書による引用は今から言う次のことを語っているわけです。ひとつは、わたしたちはどのようなものであっても、本来は滅ぼされてしかるべき罪人、神さまの怒りをその身に受けて滅びるしかない怒りの器なのだということです。そしてもうひとつが、その怒りの器でしかない罪びとたちを神さまが自由な選びによって赦し救ってくださる。ということです。神さまは憐れみを受ける器を召し出し、またその召し出した器が、赦し、恵みをうけることが出来るよう神さまが忍耐してくださっている。ここにこそわたしたちの救いがあるのだということを語っているんです。

 聖書は言います。わたしたちは、ただただ救いへと導こうと忍耐してくださっている神さまを、そして、わたしたちの罪を贖い、救いへと導くために人となってこの世に来られ、十字架の上で命を捧げてくださったイエスさまを、怒りの器でしかないわたしたちを憐れみの器として作り変えてくださったんだということ、これらを信じるしかない。そのためにわたしたちはこの礼拝に神さまの導きによって召し出されている。これこそがまさに恵みなんだ。救いなんだ。喜びなんだ。それを今一緒に受け取りたいと願います。
 ある先生がこういったことを言っていたんです。聖書を読んでいていつも思うと、聖書というものは本当に正直な書物だと。そういうんです。もちろん聖書が嘘をつくとかそう言ったことではなく、聖書はきれいごとを言わないんだということなんです。聖書には誰しもが抱えている、抱えうる、神さまに対する疑問、不平や不満といったものが書かれている。そして、その不平や疑問をきれいごとなしに書いたうえで、それに対するきれいごとなしの答えが書いてあると言うんです。聖書にはきれいごとなしの神さまによる、本当のことが書いてある。それはなぜか。聖書は命の本だからです。人間を救わんと、神さまの愛によってこの地に与えられたのが聖書であるからだと、人間に救いを与えるのが聖書の目的だからだというわけです。そうであるなら、わたしたちがただ気分よくなるだけ、体裁を繕ったものだけが書かれていても仕方がないわけです。救いの書であるから、命の本であるから、わたしたちのしょうもない部分もしっかり書かれている。罪という神さまを、他の人を、自分自身を悲しませてきた実績が余すことなく書いてある。罪深いわたしたちが救いに与るためには、わたしたちにとって都合のいいもので塗り固められたものでは到底無理であるわけです。だから聖書というものは本当だと思うんです。聖書は決して、その場限り、その場しのぎの答えをすることはない。そしてその答えによって、ただ一つの救いへとわたしたちを持ち運んでいくのだと言うんです。わたしたちは神さまに問うことが許されています。怒りの器の中にあるその思いを神さまに投げかけてよい。神さまはその思いを受け止めてくださいます。それだけじゃない、神さまはその思いを受け止め、忍耐してくださり、空になったその器に、恵みと憐れみを注いて、憐れみの器として造り替えてくださるんです。

 わたしたちはただ神さまの憐れみによってのみ生きている。そのことがまさに示されているのが、主イエス・キリストの十字架と復活であるわけです。わたしたちの救いはここにあります。この救いに与る喜びにわたしたちは生かされている。何度なく、何度でも、この礼拝によって、わたしたちはその答えを頂くわけです。わたしたちは、わたしたちの人生には、この世界には、悲しみが、苦しみが、怒りが、溢れている。そのようなものたちをも神さまは愛していてくださり、救いの御業として、イエスさまをこの世に送ってくださった。そしてイエスさまの十字架と復活によりわたしたちはもう救われている。神さまの平安に生きることに招かれている。それを信じ、共に生きよう。ということを何度も、何度でも、わたしたちはここで聞くわけです。聞き直すわけです。共に、その恵みと喜びの歩みを生きて行きたいと願います。共に、神さまと生きていこうではありませんか。

2025年8月3日礼拝説教