礼拝説教「試みは悪霊を強める」

聖書箇所:エレミヤ7:1〜7、使徒19:13〜20、マタイ7:15〜29

 今日の新約聖書、使徒言行録19章の部分は、パウロの3回目の伝道旅行について書かれているところです。この部分はエフェソという街における伝道の様子が書かれています。この町は、当時ローマ帝国のアジア州の中(今でいうトルコ)にかつて存在した街です。
 このエフェソは人口が20万から25万人ほどいたとされるとても大きな街で、パウロはこのエフェソで伝道することをかねてより願っていたというわけなんです。3回目の伝道旅行でやっとそれが実現し、約3年パウロはこのエフェソに留まり伝道したといわれています。
 今日の箇所の一つ前の部分に、パウロのエフェソにおける伝道の成果が記されています。10節にこのように書いてあります。「アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」。パウロがエフェソにおいて熱心に伝道を行った結果、エフェソの街にとどまることなく、アジア州全体、エフェソをはじめとする、同じアジア州に位置するラオディキアや、ヒエラポリス、コロサイといった街においても、多くのキリスト者たちが起こされパウロの伝道の成果が出たということが書いてあります。パウロはエフェソを起点にしてアジア州各地に足を伸ばし伝道を行いました。そしてたくさんの主の言葉に従うものたちを起こした。パウロのエフェソにおける3年はとても実りの多い3年であったわけです。
 パウロはエフェソにおける伝道の中で、多くの奇跡を行ったと聖書には書かれています。今日の箇所の少し前にある12節には「彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」と書いてあります。パウロのエフェソ伝道の中で行われたパウロの奇跡によって、病に苦しめられている、悪霊に取り付かれるようなそういった生活を送る人々が解放されたんだ。癒されて、健やかに神さまとの生活を送ることができるようになったんだというわけなんです。それはつまり、神さまを信じ、受け入れ、神の霊、聖霊を洗礼によって授かったということであるわけです。
 このパウロの行った奇跡では、パウロが身に着けていた手ぬぐいや前掛けが活躍するんです。パウロの身につけた手ぬぐいや前掛けを病人に当てれば、病気は癒され、悪霊は出て行った。これはですね、そういったパウロの持っていたアイテムにそのものにいわゆる魔術のような力が宿ったということではないわけです。11節にこのように書いてあります。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた」。つまりこのパウロが行った奇跡というのは全て、主なる神さまによるものなんだということなんです。パウロの業ではなく、神さまがご自身でおこなったみ業であって、パウロは神さまのみ業のために用いられたんだということなんです。この神さまによる御業は多くの人々に影響を及ぼすわけです。

 その影響を及ぼした、ひとつのエピソードが今日の聖書箇所になります。13節からの箇所です。この箇所には「各地を巡り歩くユダヤ人の祈祷師たち」が登場します。この祈祷師である彼らが、悪霊に取り付かれている人々に向かって試みに、「パウロが宣べ伝えているイエスによって、お前たちに命じる」と言ってみたというところからお話が始まるわけです。この祈祷師たちは一体何をしていたのか、彼らもパウロのようにですね、厳密に言えばパウロは神さまの御業で悪霊を追い出し、癒しの御業をしていたので違うんですけれども、悪霊払いをしていた人たちだったんです。
 この聖書の世界の祈祷師たちによるおはらいというのはちょっとわたしたちの想像にないおはらいの仕方です。それはどういったものかというと、誰かの名前、その名前の持つ権威によってお祓いをするというんです。例えば歴史上の偉人の名前を使って彼らは悪霊払いをしていた。聖書に出てくる人の名前であれば、偉大な王様にして知恵者であるソロモンですとか、イスラエルの民をカナンの地まで導いたというモーセ、信仰の父であるアブラハム。こういった聖書における有名な登場人物である彼らの名前を使ったというんです。どのようにその名前を使ったのか、祈祷師たちは悪霊に取りつかれた人に向かって大体このようなことを言ったんだそうです。ソロモンであれば、「ソロモンの名によってお前たちに命じる、悪霊よ、この者の体から去りなさい。」つまり、偉人の名前のその権威を使って、悪霊にお前よりもこの私は上位の存在なんだということを知らしめ、追い出していた。こういった名前を使った悪霊祓いをこの時代の祈祷師たちはしていたというわけなんです。ちなみにイエスさまもですね。このような言葉をもって悪霊を追い出す御業をされたということが聖書に書いてあるわけです。そしてパウロも名前を使って、○○の名によってお前たちに命じると言って悪霊払いをしていた。そこで使われた名前は、もちろんイエスさまであるわけです。
 このような悪霊払いをしていたものたちの耳にパウロのことが入ってきたわけなんです。このパウロの起こした奇跡のうわさは、それこそアジア州各地に広がっていったわけなんです。10節でお読みしたようにアジア州の各地で多くのキリスト者が起こされて、そこに住むものであればだれでも主の言葉を聞くほどになっていたわけですから、キリスト教を知らないひとはいなかったし、そのキリスト教を広めていたパウロという伝道者の名前を知らないものもいなかった。そしてパウロに関するあるうわさが立つ。有名なキリスト教の伝道者であるパウロという人は、すごい癒しと悪霊払いの力を持っているらしい。彼はどうやらイエス・キリストはわたしたちの救い主なんだと言って、多くのものたちを癒し、またの悪霊払いを行っているらしいと、祈祷師たちは聞きつけた。パウロというものが、イエスというものの名前を使って癒しと悪霊払いをしている。それがどうやらすごく効くらしい。多くのものを癒し、多くのものの悪霊を払う、まさに本物だ。
 彼らはこう思ったわけです。そんなに効き目のある、つまり権威のある名前であるならわたしたちも使わせていただこうではないか。繰り返しますけれど、彼らは歴史上の偉人、多くの戦いに勝利し、多くのものの上に立ち、導いたものの名前を拝借して祈祷を行っていたわけです。したがって、効き目の強い名前であれば使わない理由はないわけです。そして彼らは13節にあるように「パウロが宣べ伝えているイエスの名によってお前たちに命じる」。こういってイエスさまの名前を使い始めた。しかしですね、他の偉人の名前であるならともかく、イエスさまの名前を使ってはいけなかった。彼らはイエスさまの名前を使うことによって、悲劇を招くことになるわけです。今日の聖書に登場するのは、ユダヤ人の祭司長であるスケワというものの七人の息子たちです。彼らはここにあるように、ユダヤ人の祭司長の息子であり、13節にあるようなユダヤ人の祈祷師であった。そして彼らはイエスさまの名前を使って悪霊払いをしようとしたと言うんですね。しかし悪霊は彼ら息子たちに言い返したんだと15節に出てきます。「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ」。そして続く十六節に書かれているように悪霊に取りつかれている男が、この祈祷師たちに飛び掛かって抑えつけ、彼らをひどい目に合わせたわけです。裸にして傷だらけにして、祈祷師たちを追い返してしまった。

 彼らは何故悪霊の反撃を受けてしまったのでしょうか。それは、自分たちの使っている名前がどういったものであるのか答えることが出来なかったからです。彼ら祈祷師たちとパウロには決定的な違いがありました。祈祷師たちはイエスさまの御名がいったいどういったものであったのかということを理解していなかった。もっと言えばイエスさまを信じていなかったんです。先ほどもお話しましたように、彼らユダヤ人祈祷師たちは名前を使ってお祓いをします。彼らはその借りたものの名前の権威を使って悪霊を払う。それにはその借りた名前がどういったものであるかということがわかっていなければならない。  つまり、パウロが宣べつたえているイエスの名によって悪霊に命じるのであれば、パウロが何を伝えているのかということ、そしてイエスさまが一体何をされた御方なのかということをわかっていなければならないわけです。もっと言えばそうだと信じなければならない。しかし彼らはユダヤ人ですから、主なる神さまを信じてはいたかもしれないけれどもイエスさまを信じていなかった。口語訳聖書ではこの祈祷師という部分がまじない師と訳されているので、占い、まじないの類を行っていた人とも考えられているので信仰自体があったどうかも正直怪しい。しかしユダヤ人であれば、一応は主なる神さまはどういったお方であるかわかる。ですが、イエスさまが主なる神さまの独り子であり、わたしたちの罪のために十字架にかかったものであるということ自体は絶対に信じていなかった。なにものであるかということがわかっていなかった。ちょっと巷でうわさになっている、よさそうな名前だから拝借しようとなったにすぎない。だから逆に悪霊は祈祷師たちに聞くわけですね。お前たち、この名前が一体何を意味しているのかわかっているのかと。俺らはこの名前の恐ろしさを知っているけれども、お前たちから発されるその名前からは何の恐ろしさも、本物を感じないぞと言われるわけです。そして逆襲を受けることになる。名の意味をしらないだけでなく、今日の聖書にあるように魔術であるとか、まじない、占いの類に自分は何者なのかということや、自分の人生というものをゆだねてしまっている者は、なおのこと手ひどい仕打ちをうけるわけです。

 わたしたちはいつも問いかけられているものです。あなたは何者なのか。悪霊は祈祷師たちに問いかけました。お前たちはなにものなのだ。これ、実はとても難しい問だと思います。それこそこの世の価値観に生きているものであれば、答えることの出来ない問いです。それがあなたは何ものなのかという問いです。わたしたちはいつもこの問いの答えを探し求めています、もしくは探し求めていたわけです。そういった人生の中で、それなりの、なにか借りものの、きつい言い方になりますけれど、答えを見つけるわけです。自分は何者か、自分は人間だとか、地球人、日本人、わたしは加藤隆と言う人間だとか。そういう答えに行き着くことになる。それは、どこか漠然とした答えであるわけです。それなぜか。あなたは何者なのか。これはおそらく、何かの所属を聞いているわけではないんですよね。例えば何々高校の、とか何々大学、何々株式会社、何々家、職業何々、特技何々、そういったことを聞いているのではないし、そこに実はわたしたちが何者かという決定的な答えというものはない。なぜそんなことを言いきれるのか。それは、その所属とか、わたしという存在というものは移ろいゆくものであるからです。むしろ、そこに移ろいゆくものにわたしとは何者かというものを規定してしまうと、その頼りにしていたなにものかが無くなってしまったときに、わたしたちの心はおかしくなってしまうわけです。学歴がすべてだと思って勉強している人間が、会社に入って挫折するなんとことが、ある。時と場所が移ってアイデンティティが変わるということが人間にはあるんです。またこれが得意だというものに全てを捧げていた人も、例えば老いや健康の問題でその得意なものが出来なくなったときに、それを受け止めることが中々できなくなってしまう。会社、仕事にアイデンティティを求めても、何時かは必ずその組織を離れる時がくる。わたしという人間、存在も、何時かはこの世から去るときがくるわけです。自分の人生は自分自身で何とかできる。また神さまの救いを知ることなく、自分を救うという試みは、悪霊を、罪を強めることとなるわけです。頼りにしているものを手放さなければならないというのはとても大変なことです。大事にしているものであれば、わたしをわたしであると定める何かであるならそれはもっと大変なことです。それこそ時に心や体を壊してしまう、かたちを歪めてしまうほどに。だからお前は何者なんだという問いって実はとても深く、また漠然として、つかみどころがなくて、答えに困るもので、しかも、何よりも大切で、わたしという存在そのものにかかわる問で、わたしたちがいつも心のどこかで求めている問であるわけです。


 しかし神さまはわたしたちに、その問の答えを与えてくださっている。わたしたちは何者なのか。わたしたちはクリスチャンなんです。神さまに生きるもの、神さまとともに生きるもの、神さまに罪許されたもの、神の子とされたもの。そういったわたしたちは何ものであるかという答えを与えてくださっている。この答えは自分で見出したものではありません。不思議に思うかもしれない。自分でこれだと思って確信を得たものこそ、自分は何者なのかという答えにふさわしいものではないか。僕は言いたい。そういって、何度も何度も挫折して答えを求めてさまよって来た、なんなら今もそう生きているのがわたしたちじゃないですかといいたい。この答えというのは誰か他の人が与えてくれて納得した答えではないし、自分で見つけだしたものではない。神さまが与えてくださったものです。そしてそうなんだと信じた、信じさせていただいたものです。神さまがわたしたちに恵みとして、救いとして与えてくださっているものなんです。この神さまに生かされているものというベースがあって初めて、救って下さった神さまのためにわたしたちには何が出来るだろうという人生が始まるわけです。わたしが見つけたわたしの人生は、ほとんどすべてがわたしで完結する。しかも死んだらそこまで。でも、そうじゃない。わたしたちは、神さまのために生き、神さまのために礼拝を捧げ、神さまの愛に生きる喜びに満たされて、罪の赦しと復活と永遠の命に生きるという人生を歩んいるわけです。この歩みは永遠に終わることがない。わたしたちがこの世から去ってもおわらない。しかも教会によって次の世代へとこの喜びと救いは引き継がれていく。
 神さまはこの世の初めから終わりまですべてをご支配に置かれています。だからわたしたちの側から何か変えることは出来ない。それは救われた人生は、世の終わりまで救われているということです。神さまはわたしたちの存在すべてを救い、罪を赦し、わたしたちを神の子として生かしてくださっているという事実は永遠に変わることがないということです。そのことをわたしたちはこの礼拝でいつも確かめる。そのよろこびをかみしめて新しい週の歩みへと向かうことが許されているわけです。ありがたいことだと心から思います。

2025年7月27日礼拝説教