礼拝説教「補うものは補われる。いや、すでに」
聖書箇所:申命記26:1~11、コリント(二)8:1〜15、マタイ5:21〜37
今日お聞きしたコリントの信徒への手紙(二)の8章は、エルサレム教会への援助、献金を行おうとしていたコリントの教会に対してパウロが呼びかけた内容が書かれている部分になります。
コリント教会はエルサレム教会へ献金をしようと計画していたんです。何故かというと、エルサレム教会が経済的に苦しい状況に陥っていたからです。そういった事情をコリント教会の人々は聞きつけ、この手紙が書かれたその前の年から、他のところにある教会に先駆けてエルサレム教会への献金を行おうと動き出していたわけなんです。
しかしそのエルサレム教会への献金の計画は、スタートしたものの遅々として進んでいなかった。コリント教会は経済的に豊かな教会あったと考えられています。そして経済的な面だけでなく、神さまからのたくさんの恵みを受けていた。そう言われています。8章7節にも「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」そう書かれています。パウロは様々な教会のことを見聞きしてきた中で、他の教会と比べてみてもコリント教会はすべての面で豊かであると言っているんです。
そういった豊かであるはずのコリント教会の人々がエルサレム教会へ献金ができていない。この現実は神さまから受けた恵みを同じ神さまの家族に、また隣人や貧しい人たちへ恵みを受け渡すことができていない。もっと言えば受渡すことを渋り、自らに恵みを留めてしまっていたということの表れであったということなんです。今日の箇所でパウロは神さまから豊かに受けている恵みを自分の内にとどめておくことなく分け合うようにと、そうコリント教会の人々に語るわけです。
今日の聖書箇所で、コリントの教会の人々とは対照的に恵みを隣人へと与えるものたちとしてここで描かれている人々がいます。それがマケドニアの諸教会の人々であったわけです。8章1節で「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。」と、パウロはコリントの教会の人々に他の教会に与えられた神さまの恵みの出来事を知らせようとします。マケドニアの諸教会で何が起きたのか、どんな恵みの出来事が起きたのか。それを語るわけです。続く2節をお読みします。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。」マケドニア教会の人々は苦しみを伴う激しい試練にあっていたと言うんです。そしてとても貧しい状況にあった。当時のマケドニアは資源が豊かな国であったと言われています。したがってマケドニアの人たちはそこまで貧しい生活を強いられるような状況ではなかったはずでした。しかしキリスト者となったマケドニアの人々は例外だったんです。それは何故かと言うと、キリストを主として信仰することによって迫害され苦しみ、その迫害によって生活も貧しい状況に追い込まれていたからです。
しかしこのような同じマケドニアに住む人々からの迫害、それに伴う苦しみの中にあってなお、マケドニアの教会の人々は「喜びが満ち満ちて」、極度に貧しいのに「人に惜しまず施すことができる豊かさに生きてい」たと、パウロは言います。むしろその豊かさを積極的に求め、隣人のための業に奉仕に参加させて欲しいとまで言ってパウロに願い出たわけです。なぜマケドニア教会の人々は、迫害の苦しみと貧しさを味わっている最中にそれでも喜ぶことができたのか。
それは、どのような時でも、苦しみの中や貧しさの中であっても、イエスさまが共にいてくださる御方であるということをマケドニア教会の人たちは確信し、信じ、委ねていたからです。
わたしたちでは想像も出来ないような、迫害の苦しさ、痛み、またそれに伴う貧しさの中にマケドニアの人たちはいました。そのような状況にあって彼らは、自らの苦しみは神さまのせいではない。そう思ったわけです。
普通であれば、神さまを信じることによって迫害され、苦しみと貧しさの中に落とされたと聞くと、こう思ってしまうわけです。「それなら神さまを信じることをやめればよいではないか」「神さまを信じることを止めて、迫害している側と同じ暮らし、同じ信仰に立って生きるようにすれば、苦しみや、痛み、貧しさ、あなたを苦しめている全てからすぐにでも解放されるではないか」。
でも彼らはそうしなかった。むしろここにこそ、今の自分たちが立つ信仰にこそ、大切なものがあると信じそこに恵みを見出していたわけです。彼らは信じていました。その恵みはどこから来るのか。私たちの命はどこから来るのか。
すべてはわたしたちの主、イエス・キリストの十字架と復活から来る。イエスさまをこの地に遣わされた救い主の父なる神から来る。わたしたちと同じ、いやそれ以上に迫害され、蔑まれ、奪われていく歩みを、わたしたちよりの既に先に歩んでくださったお方がいたんだと、そう彼らは信じたわけです。苦しみと迫害の歩みの中で、自分たちもイエスさまやその弟子たち、信仰の先達が歩んだその道を歩んでいる。それと同時にこの苦しみはイエスさまが味わってくださった苦しみであり、またイエスさまが今もわたしたちと共におられ、共に味わって下さっている苦しみなんだ。そのようにしてマケドニアの人たちは苦しみを通して、イエスさまとひとつとなっていることを知った。
たとえこの世のものが何一つわたしの手の中になくても、それでも、わたしたちにはイエスさまが共におられ、イエスさまが与えてくださった救いが、慰めが、自らの内にあるではないか。これは何にも代えがたい喜びではないか。それならば、その恵みに、喜びに生かされていると確信できるならば、困窮の中にあり、苦しんでいる人たちのために自らを捧げようではないか。むしろそれをイエスさまはわたしたちにしてくださった。その弟子として、信じるものとして、生かされているわたしたちも、そのように可能な限り生きようではないか。そう思ったわけです。
この手紙を書いた使徒パウロは、かつてキリスト者を迫害していた時、眩しい光のなかでイエスさまの声を聞きました。その時にイエスさまはパウロにこのように言ったと聖書は言います。「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」。パウロは、イエスさまを信じ教会に集う者たちを迫害していましたけれども、イエスさまに直接的に危害を加えてはいないわけです。しかしイエスさまは、パウロのキリスト者に行った迫害を「わたしに対する迫害」だと言いました。
ここでわかるのはイエスさまを信じると告白し、イエスさまと共に生きるとされたものをイエスさまはご自身であると言って下さるということです。イエスさまはわたしたちと一つになってくださり、わたしたちの喜びはイエスさまの喜びであり、わたしたちの悲しみ、痛みは、イエスさまの悲しみ、痛みなんだと言ってくださっている。
パウロはイエスさまがわたしたち一人ひとりとひとつになってくださる御方であるということをイエスさまから聞き、それが確かであったと信じ、目が開かれた者です。だからパウロは痛いくらいにわかった。マケドニアの人たちが何に生き、何に喜び、何に豊かさを見出しているのか。同じだ。イエスさまと共にいきる喜びに生きている。イエスさまによってすべての不足が満たされて、実はもう大事なものをわたしたちは持っている。その思いを受け取り、分かち合ったわけです。
マケドニアの人たちがなぜ苦しみや貧しさの中でも、他の人々のために自らを、自らが持っているものを捧げることが出来るのか。それは、ないものの気持ち、持たざる者の気持ちがわかるからです。迫害されて、苦しみと貧しさの中で、彼らは生きていました。それは確かに神さまから与えられた恵みだと、そのように確信し、神さまと共に生きるという喜びと恵みに生きていたわけです。しかしそれでも実際に貧しさの中で生きていれば当然ものがないということに気が付く。それを味わってきた。しかし、彼らは同じ状況にある者たちに対して「それがいつか恵みに感じられるときが来るから、それまで貧しさや苦しさと戦って、祈りながら生きてね」とは言わない。
これは聖書には書いてないのでわたしの想像でしかないんですけれど、やっぱりマケドニアの人たちは、苦しかったし、辛かったんだと思うんです。簡単に言ってはいけないことだと思うんですが迫害と貧困。そんなものは苦しくない、喜びでしかない、それはやっぱり無理があると思う。でも、やせ我慢でもなかったと思うんです。
その苦しみを味わいつつ、それでも、その苦しみを神さまに乗り越えさせてもらった。救われたんだと彼らは言います。すごいなと思います。自分自身の信仰を思いおこして考えてみればなおのことそう思いますし、それと同時に、本気でその信仰告白を、同じ苦しみを味わっている人々の力になりたいと心からパウロに言えるマケドニアの人たちの気持ちも、なんかわかる気がするんです。
彼らは、わたしたちは苦しみ、その中でイエスさまと出会い、救われて、神さまと共に生きる豊かさを与えられた。でも彼らは、同じ状況にある皆も同じように苦しんで、救いを手に入れればいいとわたしたちは思うんだよねとはならなかった。その苦しみに生き、味わったからこそ、同じ苦しみを味わい生きるものたちに対して、持っているものを分かち合うし、祈るし、自分に出来ることは何かないのかといってパウロに対して、自らをも捧げることをいとわないその姿勢を示すわけです。
パウロはコリントの教会の人たちにこのように言います。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは主の貧しさによってあなた方が豊かになるためだったのです」。
コリントの教会の人々も、わたしたちも、神さまによって豊かにされた。パウロはそう言うわけです。誰か、不足のあるものが居たとする。それに対して、その不足を補う行為ということは、自らを捧げ、自らの持ち物を捧げるということは、損じゃないんだと、自分ばっかり捧げているとか、自分は無理を強いられているとか、信仰という名のもとに搾取されているとかそういうことじゃないんだと言うわけです。なによりも、あなたがたひとりひとりのうちにある欠けや不足というものを、罪と言うわたしたちの存在にあいた、神の子として生きるためには致命的に足りない不足、大きな大きな穴を、埋めてくださったお方がいるじゃないかと。それこそがわたしたちの主であるイエス・キリストの恵みであり、十字架と復活ではないかと。それを信じ、生きるものにあたえられた信仰生活ではないかというわけです。
「他の人々には楽をさせて、あなた方に苦労をかけるということではなく、つり合いが取れるようにするわけです。あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうしてつり合いが取れるのです」。14節でパウロはこのように言います。いつも自分ばっかり捧げているではないか。いつも自分はっかり奉仕しているではないか。いつも自分ばっかり、時間と体力とやりたいことをうばわれているではないか。みんなずるいんだから。わたしたちは心の中でそのように思うことがある。この説教を書いて、今語っている自分もそうです。そう思うときはしょっちゅうある。でもそれを本当に心から喜びとして、捧げることが出来るようになったとき、これほどまでに感謝なことはないなと思うわけです。そしてそのように捧げている人のことを、みんな見ていると思います。なによりも神さまが見ておられる。神さまが共に生き、共に喜びと苦しみを生きてくださって、わたしたちが人生の歩みの中で味わっているすべてを味わってくださっているわけです。
いつか必ず与えたものがかえってくるだろうから、他のひとに積極的に貸しを作っておこうという、恵みや、捧げものを投資感覚で捧げるのではなくて、感謝をもって捧げたいと思います。ここでパウロは補うものは、いつかかならず補われる、そのようにしてつり合いが取れるようになると言います。わたしたちは恐れる必要はないのです。足りないものは必ず神さまが補ってくださいます。
そしてなによりもまず、自らのすべてを、命をも捧げて、わたしたちの不足を補ってくださったかたがいるということを思い起こしたいと思います。イエスさまの十字架と復活によって、不足はただの不足ではなくなったわけです。その救いにわたしたちはあずかっている。神さまを信じていなければ、この世の価値観で生きるものならば、ないものはない。あのひとにはあって、わたしにはない、それは不幸なことだとなってしまう。イエスさまは既にわたしたちに必要な全てを備え、本当に埋めなけばならない、世にあるものでは埋めることの出来ない不足を埋めてくださっているわけです。本当に大事な神の子として、神さまに愛されたものとして生きるためのすべては、神さまによって補われているわけですから、喜んで、神さまに、隣人に、不足のなか困窮のなか歩む人々のために進んで捧げていく喜びの人生を歩んでいきたいとそう思います。
そのように歩んでいけたらな、どうか歩んで行って欲しい、一緒に歩んでいきましょう、一緒に歩んでいきませんか?
ここにいるみんなで、そのように感謝と祈りをもって神さまと共に歩む人生を生きていきたいと願います。
2025年7月6日礼拝説教
