礼拝説教「地の塩、世の光」
聖書箇所:イザヤ60:19〜22、フィリピ2:12〜18、マタイ5:13〜16
今日はマタイによる福音書の中にあります、山上の説教の部分から聞きたいと思います。山上の説教とは、マタイによる福音書の5章から7章にかけて書かれている、イエスさまが山の上でお語りになられた教えのことを言うんです。
教えを語った、説教をしたということは相手がいたわけです。イエスさまは人々に教えをお語りになりました。誰にお語りになったのか。それは聖書に書かれているようにイエスさまに従っていた弟子たち、それからイエスさまの教えを聞くために集まっていた多くの群衆たちであったわけです。
つまりイエスさまを信じ従うものも、またそうではなく多くの癒しの御業を行ったというその噂を聞きつけて集まったものたち、「はたしてイエスというものはどういったものなのか、イエスというものが語る教えとはどういうものなのか」ということを知りたくて集まったものたちも、どんな人であったとしても招き入れてお語りになられたと言うことがわかるわけです。
この山上の説教というのはイエスさまを信じ弟子となったもの、またまだそうではないもの、分け隔てなく、すべてのものたちに対して語られたみ言葉なんだと言うことが出来るわけなんです。
そして今日の聖書は、その山上の説教の中でもよく知られている箇所のひとつであると言うことが出来ると思います。「地の塩、世の光」と小見出しが付いている箇所になるわけです。今日の聖書箇所をもう一度お読みしたいと思います。
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。このようにイエスさまはわたしたちにお語りになるわけです。
ここでイエスさまは、山上の説教を聞いている弟子たちや多くの群衆たちのことを塩、そして光に例えるんです。なぜそのように例えるのか、またこの例えがどういう意味をもっているのか。それはこのようなことを意味しているんだというわけなんです。
塩というものは生活に欠かすことの出来ないものです。塩の入っていない料理は味が薄くうまみもない。簡単に行ってしまえばおいしくないわけです。また塩はものが腐ることを防ぐ役割をもっています。そして人間のからだには塩分がなければいけない。つまり塩というものなしに人は生きていくことが出来ないんだというんです。つまり「あなたがたは地の塩である」というのは、弟子たちも群衆たちも、みんなこの世界に良い味をつけるため、また長持ちをさせるため、生きていくためになくてはならないものだ。なくてはならない働きを担っているんだということをイエスさまがお語りになっているわけなんです。そして「あなたがたは世の光である」。これは文字通り、あなたがたはこの世の光として世界を明るく照らす存在なんだということをイエスさまは弟子たち、群衆たち、そして今ここにいるわたしたちに言っているわけです。光があることで見つけることが出来るものがある。光のおかげで暗いところでも躓くことなく生活することが出来るようになる。つまりここでもイエスさまは、あなたがたは今この世界にとってなくてはならない存在なんだと言っているわけです。
ここで大事なことは、イエスさまが「あなたたちは地の塩であり、世の光なんだ」と言っているということです。つまり「あなたたちは地の塩、世の光になりなさい」と言っているわけではないんだということなんです。この地に生を受けて生れ落ちた場所で、今日も一人ひとりにあたえられた人生を生きている、そのあなたがた一人ひとりは「もうすでに」地の塩であって世の光なんだ。あなたがたはこの世界に欠かすことの出来ない大切な存在なんだ。イエスさまは今日のみ言葉でそのように弟子たち、また群衆たち、そしてわたしたちに対し宣言してくださっているわけなんです。
しかしイエスさまは、あなたたちは地の塩であり世の光なんだという、わたしたちの存在を明らかにする宣言だけでこの説教を終わらせないわけです。この話には続きがある。言わなければいけない大事なことがあるんだと言うんです。それは何かというと塩は味を失うことがあり、また光も置くところを間違えたなら、その照らすという役割を失ってしまうんだということなんです。塩が塩気を失ってはならない、そして光が升の下に置かれて隠されてしまってはならないとイエスさま言われるんです。
そして15節でもイエスさまはこのように言います。「また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。」これは先ほども言ったように、あなたたちはともし火になるんだと言っているわけではないわけです。もうすでにともし火としての役割を皆が生きている。その前提で話をイエスさまはされます。ここで中心になっている話題はなにか。それはどこに置くのかということなんです。ともし火が置かれるのは燭台の上になります。燭台の上にともし火があれば部屋全体を明るくすることが出来るわけです。つまりその与えられた役割を十二分にはたすことが出来るというわけなんですね。
14節後半はこのことを言っているわけです。山の上の町は、ふもとからまた中腹から、また空からであってもどこからでも見えるわけです。時に目印になり目的地にもなる。そのようにあなたがたは世の光という役割を隠しておくことは出来ないのだ。その光によって世を照らし、16節にあるように「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」。それがあなたたちの人生における大事な働きであり大事にしなければいけないことなんだと言われるわけです。
多くの教会の屋根の上には十字架があります。遠くからでもその十字架を見れば「あぁ、あそこに教会があるんだな」とわかるわけです。そこでは礼拝がささげられているわけです。十字架の上でわたしたちの罪のためにその命を捧げてくださったイエスさまに自らの罪を告白し、赦されて救われたものたちが集い、賛美し、祈り、主の家族として生きている。そのことが世にいる人々に示されている。これが教会の上にある十字架が示していることであるわけなんですね。教会に十字架があるのはただ単にシンボルとして、目印としてあるわけではないんです。そこにはわたしたちの全てが表され込められている。そのようにして、この世界にわたしたちの全てを表してくださる十字架のように、イエスさまはわたしたちに、あなたがたは地の塩、世の光なのだから、塩として、光としての務めを果たすのだ、と言われるわけなんです。
そして、そのような働きをイエスさまは16節の後半でこのように言います。「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」多くの人々の前でその光を輝かせるということは「立派な行い」であるとイエスさまは言うわけです。このように聞くとわたしたちに与えられている地の塩、世の光としての働きのハードルというものはぐっと上がったように聞こえるかもしれません。わたしたちが地の塩、世の光としてその光を輝かせる立派な行いをすることによって、天におられる父なる神さまが崇められるようになる。その光を輝かせる立派な行いというものとは一体なんでしょうかとなるわけです。
立派な行いと聞くとわたしたちの内には不安がよぎります。この立派な行いというものは何かを成し遂げるようなこと、わたし自身が立派であるようなことにも聞こえてくるわけです。わたしは立派な人間であるということができるものなのか、そして立派であることが救いにつながるというのなら、わたしたちは救われるのか。まずこの「立派な行い」が一体何を指しているのか。これをしっかりと知りたい。そう思うわけです。
今日の聖書の「地の塩、世の光」という小見出しのついた箇所は、最初にもお話しましたように山上の説教の中に登場する箇所です。この山上の説教においてまず初めにイエスさまが話されたこと。それは「幸い」についての教えでした。5章の3節から12節に書かれています。ここで言われているのはどのような行いをすれば「幸い」になれるのかということではなく、このような人々は「幸い」なんだということであったわけです。それはこの世の物差しから考えてとても幸いであると言えないものであったわけです。例えば「義のために迫害される人々は幸いである」と5章10節でイエスさまは言われます。迫害を受けることを幸いであると思える人はいないわけです。しかしイエスさまは続く11節でも「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」と言われ、そういったものたちも幸いであるといったわけです。
つまりここで言われていた幸いというのは、人間の想像を超えた神さまを信じて歩むものにだけ与えられる、いや、始めから与えられている幸いであるわけです。ここに立ち帰ること、このことこそ幸いなんだと気が付くこと。ここに、世における歩みでは味わうことの出来ない本当の意味での幸いがあるというわけです。そこには世の人々の無理解が必ず立ちはだかるとイエスさまは言います。神さまに従うがゆえ理解されず、一緒に信じて欲しいと言ってもけんもほろろに断られ、それどころか時にののしられ迫害されるとまで言うのです。しかしそれをもイエスさまは喜びなさいと言います。あなたがたは喜んでいい、なぜならそのようなあなたがたを神さまは愛し、憐れみ、報いを与えてくださるからだとイエスさまは言うんです。
この幸いについての教えに出てくるあなたがたは、今日お読みした地の塩、世の光の教えに出てくるあなたがたのことであるわけです。つまり、この幸いについての教えと今日の教えはつながっています。そしてもっというなら地の塩、世の光として、その光を輝かせる立派な行いというのはこのイエスさまが言われた幸いの教えに生きることなのだと聖書は言うのです。
幸いである人々とはこのような人であると言います。自分の中により頼むべき豊かさのないもの、またそのような不足ゆえに嘆き悲しむもの、しかしそれでも人を愛し柔和で寛容な心であろう、憐れみ深くあろうとする心の清いもの、そして自らにより頼むものがないゆえ、自分の中に正しさがないゆえに神さまの正しさを求めるもの、そしてそれゆえに世に生きるものたちから疎まれ、さげすまれ、迫害されるもの。これらを一言で言うとするなら、神さまの御手のうちに生きることを求めるものであると言えます。神さまによって救われたということを確信し、その信仰に立って歩んでいくものであると言うことが出来ます。
このようなものとして歩んでいくことこそ、地の塩、世の光として生きることであるわけです。それは何か立派なことをして、あの人は神さまに生きているすごい人だと尊敬を集めるようなことではない。それぞれに与えられた日々の生活の中で、イエスさまの十字架の死と復活による神さまの救いに支えられて、時に心の貧しい者として、時に悲しむ者として、時に柔和なものとして、時に義に飢え渇くものとして、時に憐れみ深いものとして、時に心の清い者として、時に平和を実現するものとして、時に義のために迫害されるものとして、時に罪に、そして神に生きるものとして、生きるということであるわけです。
この歩みこそ地の塩、世の光として歩むことであり、神さまに与えられた恵み、幸いであるわけです。この幸いに生きるということはどれもわたしたちがわたしたち自身を世に誇ることではない。しかし、その生きる歩みの先に神さまが映し出される。そういった歩みであるわけです。
それはうれしいことだなあと思いますし、ありがたいことだなぁとわたしは思うんです。自分たちには何もないわけですよ。正確に言えば、自分たちで獲得して、自分のものにしたものなどないわけなんです。実際、この体も、人生も、家族も、友人も、食べるものも、能力も、才能も、役割も、信仰も、すべて神さまから与えられたものしかない。その与えられたものに生きるとき、そこに神さまは表れてくださるというんです。つまりそれは、わたしたちが用いられ、報われ、救われているということだと思うんです。人生における意味、自分の役割、自分には一体なにがあるのだろうと思っている、私たち一人ひとりに、神さまは望んでくださり、そのすべてを与えてくださっている。
イエスさまはわたしたちを地の塩であり、世の光だと言ってくださいました。しかし実はその歩みへと導いてくださった、わたしたちに幸いとは何かを示してくださり、世においてその幸いに生きるように出番を与えてくださったイエスさまこそ、まことの地の塩であり、世の光であると思います。
このまことの塩によって味付けられ、まことの世の光に照らされることによって、わたしたちも地の塩、世の光となることが出来ました。それはなにによってか。イエスさまの十字架と復活によってです。わたしたちは元々、味などついていなく、役に立たず打ち捨てられるしかないものでした。しかし、その罪に生きるわたしたちの全てをイエスさまは追って下さり、新しく神さまに生きるように生まれ変わらせてくださったのです。そのことをわたしたちは忘れずに、感謝と賛美と悔い改めと立ち帰りを持ってその役割を果たす歩みに向かっていきたいと願います。
2025年6月29日礼拝説教
