礼拝説教「主なる神はすぐそばに」
聖書箇所:エゼキエル18:25〜32、使徒17:22〜34、マタイ3:1〜6
使徒言行録17章22節からの部分は、パウロによるアテネでの伝道の様子が語られているところなんです。このアテネでの伝道は、パウロの普段の伝道の姿とは、だいぶ異なったものであったと言われています。今日の箇所の少し前にその伝道の様子が描かれているんです。
パウロは会堂でユダヤ人や主なる神さまをあがめる人々と論じ合い、旧約聖書に預言されている救い主とは他でもないイエスさまなんだということを語ります。そして、それだけではなく、広場で居合わせた人々と論じ合っていたと聖書には書かれているんです。この、広場において論じ合ったこと。これがアテネで見られた今までのパウロになかった独特の伝道だと言うんですね。この広場、ギリシャ語で「アゴラ」という言葉でして、集まるという言葉が元になっている言葉なんです。このアゴラという広場は、アテネ市民が集会をするためにある場所です。広場で行われる集会では、アテネにおける指導者が決められたり、政治が行われたりしていました。そして集会にはもう一つの役割がありました。それは、自分の考えを人々に伝える場所という役割を持っていたんです。つまり、わたしはこれこれこう思うんだ、ということを互いに主張し語り合う、そういう働きもアゴラは担っていたんです。
アテネという街は政治、哲学、宗教、そういった事柄についての考えを述べ、主張し、語り合うという土壌がありました。それこそ一度は名前を聞いたことがあるとおもいます、ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった哲学者が住んでいた街であるわけです。町全体が政治、哲学、宗教といった話題について議論し、語り合うことを喜んで求める傾向があった。だからパウロはそういった広場に出ていって、イエスさまの福音を語ったわけです。
そして実はですねパウロが広場に出て行って福音を語ったのは、それだけが理由ではなかったわけです。どういった理由があったのか。今日お読みした箇所でパウロの語るアレオパゴスの説教。これを語ることになった理由、それはなんなのかという話なんです。
今日の箇所の前に書いてあるんですけれども、パウロはですね、アテネにおいての伝道をシラスとテモテの三人で行おうとしていたんです。パウロは二人に先立ってアテネに入りシラスとテモテの到着を待っていたところでした。そして二人の到着を待つ間、パウロはアテネの街を見て回るわけです。三人でどうやって伝道していこうかと祈りつつ、伝道の方策を考えていたわけです。その中でパウロはあることに気がづく。神々の像の多さに気が付いたわけです。アテネには神々の像が数え切れないほどに存在したと言われています。それこそパウロを憤慨させるほどに、神々の像があった。
どうして数え切れないほどの神々の像がアテネにはあったのでしょうか。パウロがアテネの広場で論じあった人々の中には、エピクロス派とストア派の哲学者がいたと聖書には書かれています。
エピクロス派とストア派、どちらも当時ギリシャ哲学において中心となっていた学派です。エピクロス派は魂においても、また肉体においても平穏に生きることを追求した人々です。この世における様々なものごとを捨て去って、ただ平穏に生きることを彼らは目標としました。その具体的な目標として彼らは神々を捕らえたわけです。この世を超越した存在である神々はこの世の事柄に左右されない。つまり平穏を保って生きている存在である。そういって彼らは神々を拝んでいだわけです。
そしてもう一つがストア派です。彼らは汎神論を主張しました。汎神論というのはこの世のすべてのものの中には神が宿っているとする考えです。つまり、草、木、魚、鳥…全部に神がいる。草の神、木の神、魚の神、鳥の神があるんだと考えたわけです。そしてそれぞれに宿るその神々が、その宿るものたちの普遍的原理であると考えたわけなんです。つまり、鳥が鳥としてあるため、草が草としてあるため、といった存在の原理、普遍性を持っているものがそれぞれに宿る神だと考えた。その存在の原理、普遍性を見出し、その原理に即して生きることにこそ人間の幸福と平安があるとストア派の人々は考えたわけです。彼らはこの世に存在するすべてのもの、そこに宿る全ての神々と関わることによって、自分を相対化し、神々との関係性の中に平穏を見つけ出そうとした。彼らは哲学でいうところの立場は正反対の立場をとったそうです。障子あんまり私はその違いを理解できませんでした。
しかしですね、彼らは一致している部分もあったわけです。それは、それぞれに哲学し、それぞれに神々を見出し、アテネの至るところに神々の像を建てる、これらのことにおいて一致していたんです。そしてパウロを憤慨させたことにおいても。パウロにアレオパゴスの説教を語らせるに至った原因を作ったのは、つまるところ彼らであったわけです。
パウロはアレオパゴスでアテネの人々に語りかけます。あなたがたは非常に信仰のあつい方であると、そうパウロは言うんです。そのあつい信仰を持っていると感じた理由を23節において語るわけです。「道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです」。アテネの街に置かれた様々な偶像の神々を祭る祭壇の中に「知られざる神に」と刻まれたものがあったと言うんです。それはどういうことか。彼らはこういった理由で知られざる神の祭壇を築いていました。
わたしたちは様々な神々を見出し祀っているけれども、もしかしたら、まだ自分たちの知らない別の神がいるかもしれない。そういったまだわたしたちの知らない神に対して失礼があってはいけない。だから祭壇を立てよう。そういう理由でアテネの人々は沢山の神々の祭壇を造り祀っていたわけです。
古代ギリシャは多神教の土地でして、様々な神々を祀っていました。彼らは神話を造り多くの神々がこの世にはいるとしました。その神々は不死、死なない存在ではあるものの、全知全能ではなく、とても人間的な存在として書かれました。欠点もあり、ある時はその欠点が厄災として人間に降りかかることもありました。また、時には人間と神との間に子供が生まれるということもあったというのです。
そしてアテネをはじめギリシャの人々はその神々と交わりを持っていた。それぞれの街には守護神がいました。コリントにはアフロディーテという女神がいましたし、エフェソにはアルテミスという女神がいた。神話に出てくる多くの神々とアテネをはじめギリシャの人々はお付き合いをし、彼らを祀り、彼らからご利益を受け取ろうとしました。
このような彼らの信仰はあるものを生み出すことになっていったわけです。それはなにか。恐怖です。多くの神々の祭壇を建て、祀っているアテネの人々の信仰の根っこにあるのは恐怖なんだということが今日の聖書からはわかります。すべてのものに神が宿るということは、わたしたちの知らない何かにも神はいて、その神に対して知らず知らずのうちに失礼を働いてしまっているかもしれない。だからそういった失礼に対して神々の怒りを買うことのないように、わたしたちのまだ知らない神に対する祭壇をも作っておこう。そういうわけです。彼らはすごく熱心だと思います。その熱心さは彼らは祭壇造りに向かわせる。しかしその祭壇は神を拝むための祭壇ではないわけです。ご機嫌とりの祭壇でしかない。彼らは平穏を、平安を、幸福を求めて生きていました。しかし彼らはその中で多くの神々を見出し、そして神々を見出すがゆえに、名も知らぬ神に恐怖するわけです。
これはどういうことかというと、アテネの人々は人間を中心にして世界を考えていると言うことだと思うんです。自分たちの存在を中心として周りの世界を構築しその不足分を神で補っている。その神は言ってしまえば人間にとって都合のいい存在です。それぞれの物質、現象に神を宿らせ、それを拝み、付き合うことで、神を使役する。かれらにとって神は使役する存在です。人は神と付き合いその見返りを自らの選択によって手に入れる。そういう考えなんです。そういう考えだから自分たちの知らないものという存在にも神を宿らせないと不安になり、知られざる神という祭壇を築いてしまうわけです。
そういった人々に対してパウロは言うわけです。世界をひっくり返せと。お前たちが中心で世界があるんじゃない。主なる神さまを中心にして世界が存在するんだと。「あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」。お前たちが拝んでいるのは、実は神さまなんかじゃないんだ。神さまのことなど何も知らずに、神さまでないものばかりを拝んでいる。だからいつまでたっても不安なんだ。平穏を求めて、たくさんの神々を見出しているけれども、それは泥沼だっていうんです。永遠にありもしない神の名前を付けて、神ではないものたちとお付き合いして生きていくことになるんだと。
わたしたちは神を作ります。神の名付け親になってその神からご利益を引き出そうとする。崇め奉る人々はそう言うでしょう。でも、ひどい言い方になりますけれどそれは神を拝んでいるんじゃない。自分のより良い人生のために神を利用しているにすぎないわけです。でもそうじゃないと。神さまがわたしたちを造ったんだ。神さまが光あれと言ってこの世界を造り、神さまがそれぞれに名を与え、それぞれに命を吹き込んでくださり、それぞれの命をご支配に置かれ、そして生かしてくださっているんだと。わたしたちは被造物だ。パウロはそう言うんです。わたしたちは主なる神さまを求めるものなんだ。それはわたしたちが自分の人生の主人、この世界の中心ではなく、主なる神さまが人生の主人でありこの世界の中心であると認めるということだと。そうすれば神さまを見出すことが出来るようになる。それはつまり、神さまを求めるものとなれば神さまは必ずあなたがたを見つけ出すということであるわけです。
自分中心に回る世界をひっくり返し、自らの世界の主人の座を本来の主人のもとにお返しすること、これを悔い改めと言います。30節でパウロは「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます」と言います。
人間があれこれ考えて神を知る、神とはこういったものだと決めつけるのではなく、主なる神さまがご自身を示して下さっているみ言葉に聞き、神さまを求めるなら、悔い改め立ち返るなら、わたしたちにとって神さまは「知られざる神」ではなくなるんだとパウロは言うわけです。神さまは知られざる神ではなく、わたしたちにわたしはこういった神であると語ってくださる御方であるわけです。得体の知れない恐ろしい神ではない。むしろわたしたちを探し、わたしたちを愛し、わたしたち一人ひとりの存在を喜んでくださり、悔い改め立ち返ろうとするものを赦す神さまであるわけです。
そしてパウロはこうもいいます。その悔い改めによって神さまはそばにいる神になるんだ。そういうんです。今まで彼らは神を恐れ、名もしらない知られざる神を拝んでいたわけです。その距離はとても遠いものでした。なぜなら知らないからです。どういった正体かわからず、何をする、何の神なのかもわからず、ただ神を畏れてご機嫌を損ねないように祭壇を立て、そしてそれを拝みながらも遠巻きにして生きてきたわけです。しかし神さまを知り、自らがどのようにして生まれ、今生きているのか、それを知ったなら神さまを見出すことが出来るようになる。それによってわかるのです。神さまはわたしたちと共におられる神さまなんだ。悔い改め立ち返るものには赦しを与え、そして赦しだけでなく神さまはどういったお方で、何ものなのかを教え、さらにはあなた方のすぐそばに共にいる神なんだということを宣言してくださる神であるわけです。
そしてその赦しとは何かを具体的に指し示している、その神さまの御業こそが主イエス・キリストの十字架であるわけです。31節でパウロはこのように言います。「それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです」。
今はもう神さまがこの世を正しく裁く日をお決めになっている。つまり神さまの裁きが始まっているんだとパウロは言います。裁きというのは、神さまのみ心がなんであるかということはっきり示され、御心に適うものとそうでないものが分けられ、ついに神さまのご支配が完成するということです。
その裁きは「先にお選びになった一人の方によって」なされるんだといいます。その一人の方がイエスさまであるわけです。イエスさまがわたしたちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、わたしたちが受けるべきであった神さまの裁きをわたしたちの代わりに受けて下さった。そして復活し、罪と死と滅びに打ち勝つ永遠の命の初穂となって下さった。そのイエスさまの十字架の死と復活こそ神さまが始められた裁きの確証であり、その裁きが完成する時に私たちに確かに救いが与えられるという確証であるわけです。
神さまは先にお選びになった一人の方であるイエスさまによって、ご自身とご自身がわたしたちに与えてくださる救いとを示して下さいました。この神さまご自身と神さまの救いの御業が示されているのは、他でもない聖書に記されている御言葉であるわけです。礼拝において語られる御言葉によって、神さまはわたしたちに臨んでくださり、わたしたちに神さまとはどういったお方かを示してくださいます。わたしたちはもう神さまを知っています。神さまによって教えていただいています。そしてすぐそばにいてくださり、共に生きてくださる御方です。その幸いがここにあるのです。
2025年6月22日礼拝説教
