ペンテコステ礼拝説教「霊が語らせるままに」

聖書箇所:ヨエル2:23〜3:2、使徒2:1〜11、マタイ12:14〜21

 今日はペンテコステの日です。聖霊なる神さまが弟子たちに降(くだ)り、教会が誕生した記念の日が今日、であるわけです。わたしたちが教会に集い礼拝を捧げることが出来るのは聖霊なる神さまが働きによってです。神さまが聖霊によって教会を立て上げ、またその教会へとわたしたち一人ひとりを招き、わたしたちの内に働いてくださることによって、わたしたちは神さまと、そしてここにいる兄弟姉妹と共に歩むことが許されている。今日共にお聞きしました使徒言行録2章1節からの部分には、このペンテコステ、聖霊降臨の出来事が書かれているわけなんです。

 1節から読んでいくと、このペンテコステの出来事は五旬祭(ごじゅんさい)の日に起こったんだと書いてあります。五旬祭というのは元々はユダヤ教のお祭りです。五旬というのは50日という意味を持ちます。「旬」という言葉は月の上旬、中旬、下旬の旬からわかるように、10日という意味を持っているんです。それが五旬であるわけですから50日という意味になります。つまり五旬祭は50日目のお祭という意味なんです。
 それでは何から50日目であることを記念するんだということになります。五旬祭は過越の祭から50日経ったことを記念している祭であるわけです。もともと五旬祭という祭は過越の日、つまりイスラエルの民がエジプトを脱出した出来事から50日たった後に、民たちが神さまからシナイ山でモーセを通して十戒をいただき、主なる神さまと契約を結んで神の民となったことを記念して行うお祭りだったんです。そして、その五旬祭の日にイエスさまの約束が成就する。弟子たちに聖霊が下る聖霊降臨の出来事が起こったわけです。この時弟子たちは五旬祭真っ只中のエルサレムにいました。それは先週の説教でお聞きしたルカによる福音書の最後に書かれていたように、復活されたイエスさまが弟子たちにしてくださった約束があったからです。弟子であるあなたたちに父なる神さまが約束してくださった聖霊が降り、それによってあなたたちは力を受け、わたしの証人(あかしびと)として全世界に遣わされていくようになる。そうイエスさまは弟子たちに約束してくださった。この約束を弟子たちは信じ、共に集まって心を合わせて祈りながら聖霊が下るのを待っていたわけです。

 そのようにして待っている弟子たちに2節に書いてある出来事が起こったわけです。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」。激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえた、それが聖霊の働きを指し示しているわけです。主なる神さまの霊というのは聖書において風に例えられることがあります。風はわたしたちの目には見えませんけれども、確かに吹いているということはわたしたちにはわかる。わたしたちに働きかけていることがわかるわけです。わたしたちの目で神さまを見ることは出来ませんけれども、しかし確かに神さまはおられ、わたしたちに働きかけてくださる。したがって神さま、神さまの霊というのは風になぞらえて語られるわけです。
 また、風は日本語で新しい出来事が起こるという意味で使われることがあります。「新しい風が吹く、風向きが変わる」そういった言い方があるわけです。聖霊が新しい風となり、弟子たちに新しい展開を与える。それがペンテコステに起こったことであるわけです。

 新しい聖霊の風は弟子たちにどのような展開を与えたのでしょうか。「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」。3節にはこのように書かれています。炎のような舌が弟子たちに表れたんだというんです。出エジプト記3章において、モーセは神の山ホレブの燃え上がる柴の炎の中から主なる神さまの声を聞きました。このようにして神さまは、人間にご自身を示すときに炎となって表れることがあるわけです。モーセはこの燃える柴の体験によって神さまと出会い、預言者としてイスラエルの民を導く者となります。
 聖霊が降ったときに炎のような舌が弟子たち一人ひとりの上にとどまったというのは、神さまが弟子たち一人ひとりにご自身を示され、働きかけてくださったということが示されているわけです。また、その聖霊の働きというものが、弟子たち、言い換えるなら人間の中から生じたものではないとうことも同時に示されています。つまり、聖霊の働き、神さまを信じることというのは、神さまによって与えられたものであるのだということなんです。聖霊はわたしたちの外から吹いて来て下さり、わたしたちを新しい方向へ、新しい人生へと導き生かしてくださるのだということがここで示されている。
 またこの3節において「舌」という言葉が用いられています。この舌にも意味が込められているわけです。聖書において「舌」という言葉は語ることとの関連で登場します。「炎のような舌」というのはどういうものか、ある先生がこのように説明しています。この炎のような舌というのは、神さまからの炎が、弟子たち一人一人に「舌」つまり「語る」力として与えられたことを表しているというわけです。したがって4節に書かれているように、弟子たち「一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」わけなんですね。
 聖霊の新しい風が吹き、神さまの炎が舌となって弟子たちに宿り、語る者として歩むという新しい道が備えられた。聖霊に満たされた者は「霊が語らせるままに」語り出す。そのように聖書は言います。ペンテコステの出来事において弟子たちに降った聖霊は、彼ら弟子たちに神さまによる新しい舌、新しい言葉を与え、語る力をも与えたわけです。

 新しい風に導かれるままに弟子たちはどんな言葉を語ったのか。それは「ほかの国々の言葉」であると4節にありました。その内容が5節以降に示されています。エルサレムには様々な国から帰って来たユダヤ人たちが住んでいました。そういった人々が「自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」というんです。
 ユダヤの人々はこの当時、四方八方様々な国へと散らされ住まわせられていました。バビロニアによって自分たちの国を滅ぼされてからというもの、ユダヤの人々は自らの国に安定して住む歩みが中々できませんでした。自分たちの領地を持っていても、それを本当に自分たちの国であるとは言いきれない状況にあったわけです。そのような中で彼らは、逆に自分たちの領地、国土に縛られない生活を身につけていきました。彼らは世界中の街に移り住み、その土地の人々と交流を持ち、その土地の言葉を語り、その土地に生きたわけです。それでも主なる神さまを信じ生きることにおいてユダヤ人としてのアイデンティティを、そして信仰を保ち、共同体として生きていました。そのようにして様々な国のユダヤ人共同体で生まれ育ちエルサレムに帰って来た人々というのがここに語られている人々であるわけです。彼らが自分の生まれ故郷の言葉を聞いたというのは9節以下に一つひとつあげられている国々が表すように、当時の地中海世界のあらゆる地域に及ぶたくさんの言語であったわけです。そのような全く異なる様々な言葉が聖霊の働きを受けた弟子たちによって語られたんだと聖書は言います。
 弟子たちは主なる神さまによる聖霊の力で、様々な国々の言葉でこの驚きと喜び、そして福音を語っていったわけです。弟子たちは様々な場所を行き来し、あらゆる国の言葉を学んで来たような語学に長けている集団ではありませんでした。「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか』」とあるように、皆ガリラヤという、言ってしまえば田舎に住む漁師や大工といった普通の人々でした。そのような者たちが学んだこともない外国語を突然しゃべり出したそういう奇跡が起きたというわけなんです。
 ここで語られている奇跡によって、11節にある「神の偉大な業」、神様の救いのみ業、もっと言うならイエスさまの十字架と復活による救い、福音が、聖霊の働きによって全世界に宣べ伝えられ、広められていくということが示されたわけです。その働きによってわたしたちも、今住んでいる日本という国で確かに偉大な神の御業を知り、聖霊の働きを受け入れ、生かされているわけなんですね。

 そのようにして世界の隅々まで福音は広げられていくものとなったわけですが、しかしここで不思議なことがひとつあるわけです。聖霊の働きによって、様々な言語で語られた神の偉大な業を証する弟子たち言葉をまず聞いたのは、ユダヤの人々であったということです。海外で生まれたユダヤの人々、あるいはユダヤ教に改宗した異邦人のみが、それぞれ自分の生まれ故郷の言葉で神さまの御業を聞いたんだと今日の聖書は言うんです。
 このことが何を意味しているのか。それは聖霊の働きによってイエスさまの福音のもとに一つに集められているのはユダヤ人、つまりイスラエルの民であるということです。神の民イスラエルがもう一度集められた。それは今日の箇所のひとつ前、使徒言行録の1章6節に書かれている「イスラエルのために国を建て直す」という言葉に表されています。聖霊が降ることによって神の民であるイスラエルが、イエスさまによる十字架と復活という救いのみ業のもとにもう一度集められ建て直された。
 それによって何が起きたのか。教会が生まれたわけです。教会は最初はユダヤの人々による共同体でした。旧約聖書に示されているように、ユダヤの人々は神の民イスラエルを受け継ぐものだからです。しかしこのようにして教会がユダヤ人共同体としてまず誕生したその時、世界中の様々な言語で救いが語られたと今日の聖書はいいます。それはこの教会、そして聖霊なる神さまによる働きが決してユダヤの人々だけのものでなく、全て世界の人々に開かれたものとなっていくのだということを示しているわけです。ペンテコステの日に起った聖霊降臨によって弟子たちに与えられた奇跡は、主イエス・キリストの父なる神さまが、聖霊の力によって生まれさせて下さった教会を通し、どれほど豊かな恵みのみ業を繰り広げていって下さるのか示されています。わたしたちは、神さまが教会において実現して下さる恵みの豊かさを今味わわせていただいているわけです。

 弟子たちは「神の偉大な業」を語り始めました。それは彼らが自分たちの意思で語り始めたものではないわけです。弟子たちが語った「神の偉大な業」は、神さまによる聖霊によって語ることが出来たわけです。聖霊が語らせるままに、その喜びの知らせ、福音を弟子たちは語り、それをイスラエルの民たちが、自ら話す言葉で聞き、それによって救いの知らせ、喜びの知らせ、福音が全世界に広がることになった。神さまの愛、神さまの恵みによってわたしたちは神さまを知り、神さまの言葉をわたしたちがわかる仕方で聞き、神さまを信じていると、わたしたちの言葉で信仰を告白することが出来ているわけです。聖霊の働きは、神さまの御業は、言葉や文化、国境を軽々と越えていきます。わたしたちが生きていく中で感じる違い、壁や隔たり、そういったものを乗り越えていくわけです。そして最後は必ずひとつとしてくださる。
 神さまは最初、救いの知らせをイスラエルの民に伝えられました。そして、そのイスラエルの民だけでなく、全世界の民を神の子として救うということをイエスさまの十字架と聖霊の働きによって示してくださいました。そのことによってわたしたちは神さまのもとにひとつとなる。
 その救いの先駆けとして立てられた教会にわたしたちはいます。神さまが、独り子イエス・キリストをわたしたちの救い主としてこの世に遣わして下さり、イエスさまがわたしたちと同じ人間としてこの地上を歩み、そしてわたしたちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった。その十字架の死を神さまは、わたしたちの罪の赦しのための贖いの死として受け入れて下さり、わたしたちの罪を赦しもう一度神の子として下さった。そして罪と死の力を打ち破り、イエスさまを死者の中から復活させ、イエスさまによる罪の赦しの恵みを受けるわたしたちにも復活と永遠の命を約束して下さった。このイエスさまよって成し遂げられた神さまの偉大な救いのみ業を、わたしたちは聖霊なる神さまの働きによって知り、今日もこの教会で、救いの御業を聞き、喜びをもってそれを受け入れ、祈り賛美することが許されている。
 その教会にわたしたちは今いるわけです。

 神さまはこの教会に集う者をまずは神さまの御業と信仰によって一つとしてくださり、そしてこの教会に招かれるもの、この教会が開かれているこの地に生きる者をひとつとしてくださり、この地域を、この国を、この世界を最後には一つとしてくださいます。すべての者を神さまの愛する子、神の子として、救われる者として生かす。そのためにこの教会は立てられました。そしてそこに生きる喜びがわたしたち一人ひとりに与えられています。さらにわたしたちだけでなく、多くの者にその喜びの道への扉が開かれている。この喜びの道を多くのものたちと共に歩むために、神さまをわたしたちに聖霊を与えてくださいました。神さまがいつも共にいてくださるという安心、心強さ、恵み、喜び、それを聖霊によって確かとされる歩みに生きる。それだけでなく、このわたしが神さまに生かされ、確かに救われたとのだという神の偉大な業を語りながら生きていきたい。そう願います。霊が語らせるままに、霊の導かれるままに生きることへ召されているのは、今日の聖書に出てきた弟子たちだけではありません。ここにいるわたしたちもそうなのです。ここにいる一人ひとりにも、そのように神さまは望んでいて下さり、祝福してくださっています。感謝してその歩みにここにいる皆で向かいたいと願います。

2025年6月8日礼拝説教