礼拝説教「喜びの内に、エルサレムに帰る」

聖書箇所:エレミヤ 10:1〜10a、エフェソ 4:1〜16、ルカ 24:44〜53

 ルカによる福音書24章には、復活されたイエスさまが何人かの弟子たちの前に現れたことが語られています。例えば今日の箇所、ルカによる福音書の24章44節の少し前の部分を見てみますと、復活されたイエスさまと出会った人々を囲んで弟子たちが集まっているところの真ん中にイエスさまが立たれて「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さったこと、それから、復活されたイエスさまのそのお姿を見てもなお信じることが出来ない弟子たちに対し、からだをもって復活されたことを示すためにイエスさまが手足を見せ、さらには焼き魚を食べて見せたということが書かれていました。
 このようにしてイエスさまが確かに復活されたことを示した上で、さらにイエスさまが弟子たちにお語りになった言葉、それが44節の言葉になるわけです。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」。聖書にかいてあるイエスさまについて書かれたこと、イエスさまのことを示されていることはすべて必ず起きる。それはあなたがたと歩んでいたとき、いつも語っていたことなんだとイエスさまは言うんです。ここでイエスさまは「まだあなたがたと一緒にいたころ」と言われます。復活されたお姿を見せておられるイエスさまは、弟子たちに対して、あなたがたと一緒にいた時、それはもう昔のことなんだと言うんです。
 このまだあなたがたと一緒にいたことというのは何を指しているのか。それはイエスさまが十字架につけられる以前の時代のことを指しています。十字架におかかりになる前、イエスさまは弟子たちと寝食を共にし、共に様々なところへ伝道の歩みをし、弟子たちに神さまのみ言葉が何を表しているのかを教えられました。しかしイエスさまは人間たちの罪によって捕らえられ、ついには十字架の上でその命を捧げられるわけです。このことによってイエスさまは弟子たちと離れ、一緒にいることが出来なくなった。聖書には、わたしたちの主イエス・キリストが復活され、弟子たちのところに戻り、永遠にガリラヤで共に暮らしたとは書いていないわけです。今日の箇所の前の部分にもありますけれど、イエスさまは復活された後、弟子たちの前に様々な仕方で現われ、去っていかれ、姿が見えなくなってしまいます。そして今日の聖書にあるように最後にはイエスさまは天へと昇られるわけです。
 つまり罪と死とに打ち勝ち、復活されたイエスさまと弟子たちとの関係というのは、十字架の出来事を境に大きく変化したということであるわけなんです。十字架の前は、共に生活をし、見えるかたちで共に生きた。しかし、もはやそのようにして共に生きることはなくなる。十字架と復活の御業によって、イエスさまと弟子たちとの関係には大きな変化が起こっていることが、イエスさまのことばに表されているわけなんです。この大きな変化の最後、極めつけに起きた出来事というのが今日の50節以降に書かれている、イエスさまが天に昇られる「昇天」の出来事であるわけです。「天に昇る」と書いて「昇天」と読むんですね。それは、世において時々使われるような死ぬという意味ではないわけです。体をもって復活されたイエスさまが、その復活された体のままに地上を離れ、天に、父なる神さまの元へと上げられた。そういったことを指すわけなんです。
 復活からこの昇天までの間、イエスさまは何度も目に見える形で弟子たちの前に姿を現されました。しかし昇天されてからは、この地上において目に見える形ではイエスさまとお会いすることが出来なくなってしまうわけです。イエスさまが神さまによって天に挙げられ昇天することによって、わたしたちには目に見える形ではもうイエスさまとは会えないんだということがここに書かれている。

 イエスさまが復活されてから、昇天、天に昇られるまですこし時間があります。40日間、イエスさまは弟子たちの前にその復活したお姿を表されて共に過ごされるわけです。これは今日の44節にある「まだあなたがたと一緒にいたころ」である十字架よりも前の時代から、イエスさまの姿を目で見ることができなくなった昇天の後の時代への移行期間であると言うことが出来ます。イエスさまはこの地においてイエスさまと共に歩む歩みを人々に与えられました。しかし十字架と復活、そして昇天を経て、イエスさまは体をもってずっと一緒にいるという仕方を超えた、見えなくても、どのような時であっても、どこにいたとしても、イエスさまがわたしたちと共にいてくださる。そのことを信じ委ねて生きる歩みを、わたしたちに与えようとしてくださったわけです。それがわたしたちに聖霊を与えられるということであり、昇天された理由であるわけです。
 イエスさまがまだあなたがたと一緒にいたころと言われる理由、それは、新しい救いがあなたがたに始まるんだと言うことを、弟子たちに知らせるためのものであったわけです。そのことを踏まえて、ルカによる福音書、特に復活以降の物語を読んでみると、復活されたイエスさまが弟子たちに語られた言葉というのは、そのどれもがイエスさまが昇天されることによって与えられる新しい救いのこと、目に見えないイエスさまを信じて生きていくという時代のことを弟子たちに示しているものであるということが見えてきます。今日の44節の言葉もそうです。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」。つまり旧約聖書全てにおいて示されているイエスさまによる救いが実現し、これから先にもさらにそれが実現していくんだということなんです。
 「わたしについて、旧約聖書において書かれている事柄」とはどういったものなのか。それが続く46、47節に書かれています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と」。
 父なる神さまから遣わされた救い主、メシアは、苦しみを受けて殺され、三日目に死者の中から復活する。その神さまのみ心が旧約聖書は示されているわけです。この預言がまさにイエスさまの十字架の死と復活によって実現したんだ。そしてこれから実現していくその神さまのみ心は「罪の赦しを得させる悔い改め」が「その名」、つまりイエスさまのみ名によって「あらゆる国の人々に宣べ伝えられていくんだ」ということであるわけです。
 イエスさまの十字架の死と復活によって神さまによる救いのみ業が実現した。そして自らの罪を悔い改め、イエスさまを信じる者には罪の赦しが与えられるという救いの知らせ、つまり福音は、この世界すべてに宣べ伝えられていく。そのような神さまのみ心がすでに聖書に示されており、そのみ心は必ず実現するんだ。そうイエスさまはお語りになるわけです。まさにその、聖書によって示された神さまの御心の内にわたしたちが生かされているんだということが、ここでわかるわけです。
 そして48節では「あなたがたはこれらのことの証人となる」とあります。あなたがたは、つまりわたしたちは、イエスさまによって実現した神さまの救いの出来事の証人として遣わされることになるのだ。あなたがたに一人ひとりの働きによって、悔い改めとその悔い改めによってもたらされる罪の赦しが全世界に宣べ伝えられていくんだ。聖書に語られているこの神さまのみ心はあなたがた一人ひとりを通して実現していくんだ。そういうんですね。

 これらのみ言葉は、イエスさまが昇天された後の新しい時代を生きていく弟子たちをはじめとする、わたしたち一人ひとりが、何を見つめて生きたらよいかということ示し、そして励ましを与えるものであるわけです。
 肉なる目によってイエスさまを実際に見ることのできないわたしたちが、心の目、信仰の目で見なければならないこと、それはイエスさまがからだをもってこの世に来られ、からだをもって十字架にかかってその命を捧げられ、からだをもって復活されたことによって、肉体をもって生きるわたしたち人間の救いが実現したということであるわけです。
 その救いのみ業を終えたイエスさまは、天に昇り、目に見ることができなくなった。昇天の後の時代を生きるわたしたちは、目に見えないお方であるイエスさまを救い主と信じ、そのイエスさまのみ名によって与えられた、罪の赦しを得させる悔い改めを自分自身もなしつつ、その救いの証人として救われたものとしての恵みの人生を歩む。イエスさまが昇天されて後の時代を生きていくわたしたちの歩むべき道はこれなんだと聖書はわたしたちに言うのです。

 そしてそのために主なる神さまがわたしたちに与えてくださるものがあるというわけです。それが聖霊であるわけです。49節でイエスさまはこのように言われます。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」。
 これは次週聞きます使徒言行録の2章1節から始まるペンテコステの出来事が示されています。弟子たちに聖霊が降り、彼らが高い所からの力、つまり神さまの力に満たされ、神さまによる救いの証人としてみ言葉を語り始め、それによって教会が誕生した。そのことの備えとなっている言葉であるわけです。復活したイエスさまが天に上げられ、目には見えない方となられることによって始まった新しい時代。その時代は目に見えないイエスさまを信じ生きるという、まさに今わたしたちが歩んでいる時代であるわけです。その新しい時代に信仰者と共にありその歩みを支え導いて下さるのは、ほかでもない聖霊なる神さまであるわけです。目に見えずともわたしたちの内にいてくださり、絶えず共にいてくださり、神さまの御心に適った道へと導きを与えてくださるというその聖霊をわたしがあなたがたへ送る。だからエルサレムで待っていなさい。そうイエスさまは言われるわけです。
 わたしたちは、この約束の実現であるペンテコステ、聖霊降臨の出来事によって誕生した教会の礼拝に今いるわけなんです。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』。この言葉はまさに真実であり、わたしたちもその救いに入れられ、宣べ伝えられたもののうちの一人なんだということが、今ここで、礼拝によって、確かにされているわけです。

 50節からイエスさまが天に上げられたことが語られます。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」イエスさまは手を上げて弟子たちを祝福しながら昇天されたということがここには示されています。ここに、これから弟子たちをはじめとする新しい時代を生きていくものたちへの配慮があるとある先生はこの箇所の説教で言っています。イエスさまが天に昇られることによって、彼らはもうイエスさまのお姿をこの肉なる目で見ることはできなくなる。今までのようにイエスさまと寝食を共にし、祈り、御言葉にきくという、今までのあり方で一緒にいることは出来なくなる。そして、目に見えないイエスさまを信じ、イエスさまによって実現した救いを信じ生きていくようになる。
 そのように目に見える仕方においては弟子たち、わたしたちを離れていくイエスさまが、しかし祝福を与えつつ離れて行かれたというのは、この祝福によって目に見えない方となられたイエスさまがいつも弟子たちを、わたしたちを祝福していて下さるのだということが示されている。そういうわけなんです。イエスさまはわたしたちの罪のために十字架にかかり、わたしたちが神の国に入れられるための初穂として復活され、そしてその救いに生かされていることを忘れることのないように祝福し、多くのものが救いに与ることが出来るように天に昇ってくださったわけです。
 「祝福する」という言葉は「良い言葉を語る」という意味のことばが元になったと言われています。天に上げられ目に見えなくなったイエスさまは、弟子たち、そしてわたしたちに常に「良い言葉」つまり救いの言葉、罪の赦しの言葉を語っていて下さる。そのように聖書は言います。
 それゆえ、52節以下の言葉に続くわけです。「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」。
 ここには「大喜びで」と書かれています。昇天によってイエスさまのお姿が見えなくなった。今までのようにもう二度と、からだをもって一緒にいることが出来ない。普通であればそれは悲しいことです。にもかかわらず彼らは「大喜び」するんです。
 それはイエスさまがいつでも祝福していて下さっている。救いの言葉、罪の赦しの言葉を語りかけていて下さることが確かである。そう信じたからであるわけです。今も確かにイエスさまが共におられ、祝福の内に、救いの内においてくださる。そのような喜びに満たされ彼らは神さまを褒め称えます。
 イエスさまはわたしたちの目では見えなくなった。しかしイエスさまとわたしたちの間には、この言葉に示されているようにイエスさまが常に祝福していて下さり、共にいてくださり、支えていて下さり、励まし導いてくださるということが確かにある。その喜びに応えるためにわたしたちは礼拝をお捧げするのです。神さまを賛美し、祈り、御言葉に聞く恵みが与えられているのです。
 信じ共に生きるものをイエスさまは祝福されます。それはたとえ目に見ることの出来ないものであったとしても、手にとることの出来ないものだとしても、確かにわたしたちのうちにあるものです。それを信じる喜びが与えられています。そして、その喜びの内に、わたしたちはそれぞれの場所に帰り、神さまの体なる教会でそのみ名を褒め称える喜びの内に生きさせて頂くのです。

2025年6月1日礼拝説教