礼拝説教「神は私の強い味方」

聖書箇所:申命記 8:2〜10、ローマ 8:31〜39

 人によって少し差はあるんですけれども、ローマの信徒への手紙は大きく三つのかたまり、部分に分けることが出来るんだと、多くの神学者が言っているわけなんです。今日与えられましたローマの信徒への手紙の8章は、その大きく三つに分けたうちの一番目の部分、つまり第一部ですね。第一部の最後の章になるんだと言われているんです。このローマの信徒への手紙の第一部において、この手紙の著者であるパウロは、イエスさまによってわたしたちに与えられた救いというものが一体どういうものであるのか。これを語っています。それを別の言葉で言い換えるなら「福音」です。パウロはこの「福音」とは一体何か、ということをここで語るわけなんですね。
 イエスさまのからだなる教会に集い、礼拝を捧げ、集められた一人ひとりが、わたしたちが信じていることはこれなんだと告白している内容。つまり福音の内容。これが語られているのがローマの信徒への手紙の1章から8章、第一部にあたるわけです。今日与えられました8章の31節から39節がその締めくくりになるということなんですね。

 その締めくくりの31節において、パウロは「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」とはじめます。パウロはこの31節において語られている「これらのこと」。これを今から一言でまとめて言おうとしているわけなんです。この「これらのこと」、この言葉が一体何を指しているのか。それはローマの信徒への手紙の1章から8章まで、今までパウロがこの手紙に書き記してきたすべてのこと指しています。つまりパウロはイエスさまによる救い、また福音とはすなわちこういうことだと言おうとしているわけです。
 そしてそのまとめにおいてパウロは言うわけです。「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」このようにパウロは言うわけです。この言葉はもし神さまがわたしたちの味方だったら、誰もわたしたちとぶつかることがないのになぁというパウロの願望が語られているのではないわけなんです。何を言っているのか。それはパウロの確信であるわけです。つまり神さまが味方についているわたしたちと誰が敵対出来るだろうか。いや、神さまが味方についているわたしたちには誰も敵対することは出来ない。こういった確信をここでパウロは語っているわけです。

 この31節の後半部分において、ひとつですね、パウロが一言でまとめようとしている、救い、福音というものが表されているわけです。それは「主なる神さまがわたしたちの味方であるということ」です。主なる神さまがわたしたち一人ひとりの人生に共におられ、そして、わたしたち一人ひとりを支え導いていてくださっている。つまり我々にとって揺らぐことのない味方なんだ。これがパウロの言いたい救いであり福音であるわけなんです。「誰も敵対することのできない神さまが、わたしたちの味方であるということを心から確信すること」。それがキリスト教の福音、信じていること、救いの根っこであるわけです。天地を創造され今も生きておられる神さまがわたしたちと共におられ、そして味方でいてくださるということを信じ告白する。これらのことがないとわたしたちは救いを確信することは出来ないわけです。しかし神さまがわたしの味方であること、これさえ信じることが出来ればわたしたちは福音を受け取り、救いにあずかることが出来るわけなんです。

 宗教改革を行ったカルヴァンと言う人がいます。カルヴァンは、この31節後半の「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」というみ言葉について、次のような解説をしているんです。
 「この『神が味方である』ということこそ、わたしたち人間にとっての唯一の支えである。これがなければ、わたしたちがどんなに幸せな状態にあっても、確かな支えがない状態でしかない。逆に言えば、これさえあれば、どのような苦しみや悲しみ、逆境の中にあっても、わたしたちは神さまの支えによって立っていることが出来るんだ。」
 このカルヴァンの言葉からひとつ解ることがあります。それは『神さまが味方である』ということは、わたしたちの人生が順風満帆で足りないものがなく満足していて願っていることが大体叶って…といった幸せな状態を指しているわけではないんだということなんです。
 つまり、たとえ自分の望みや願い、夢が叶って、他の人が見たときに「あぁ、あの人はとても幸せそうな人生だなぁ」と言われるような人生においても神さまが味方でいてくれないということがあるし、同じように他の人から見て不幸の底にあるような、不遇と不足、不満に満ちているように見える、思わず憐れみを向けてしまうようなそんな人生においても『神さまが味方である』ということがある。聖書はそう言うんだとカルヴァンは言うわけです。
 このことはこのように言うことが出来ると思います。『神さまが味方である』というのは、別に神さまがわたしたちの願いや計画の実現のために手助けをしてくれる、そういった「願望達成機」ではないということです。自分の欲しいものや、なりたいものを何でも与えてくれて、わたしたちの人生から不満や不足を全部取り除いてくれる。味方というのはそういった「便利屋」ではないわけです。味方というのは、なんでもかんでもわたしたちの肩をもって、庇って、正当化してくれる存在ではない。それこそわたしたちの味方である神さまは、時に叱り、時に理不尽と思えるような試練を与えることがあります。しかしそれでも、わたしたちと共にいてくださり、最善を備えていてくださり、味方であるお方こそ主なる神さまなんだ。聖書はそうわたしたちに語るのです。

 ハイデルベルク信仰問答という信仰のQ&Aのような本がありまして、おそらくお読みになったことのなる方が多いかと思います。わたしが前に仕えていました岡山の蕃山町教会では、受洗後講座と言う講座がありまして、受洗した方が受洗後一年間受ける学びがあるんです。そこでハイデルベルク信仰問答を読んでいるんですね。そのハイデルベルク信仰問答の問27にはこのような問いが立てられています。
 「神さまの摂理とはどういうものか、あなたは知っていますか」。そういった問いが立てられているんです。神さまの摂理と言うのは、主なる神さまがわたしたち一人ひとりを顧みてくださって、その上でわたしたち一人ひとりの人生に配慮と導きを与えてくださっていること。このことを神さまの摂理というわけです。わたしたちの人生における全ては神さまが備えてくださっているものであると信じること、それは神さまの摂理を信じるということでもあるわけです。
 そういった「神さまの摂理」これをハイデルベルク信仰問答はこのように説明しているんです。
 神さまの摂理、それは「全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手を持って、今なお保ちまた支配しておられるので、木(き)の葉も草も、雨もひでりも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によって、わたしたちにもたらされるのです」
 神さまは天と地、わたしたちや動物たち、この世界のすべてを創造されたお方で、そして今もその力をもって全てをご支配のうちに置かれている。その中でわたしたちは生きているんだ。そういうんです。神さまの配慮や顧みや導きによってわたしたちは生かされているんだ。その歩みは、それこそ豊作もあれば不作もある。良い時もあれば悪い時もある。嬉しい時も悲しい時も苦しい時も辛い時も、そういったもの全て、実は神さまがもたらしてくださっているんだ。神さまの摂理の中にわたしたちは生かされているんだ。わたしたちに救いと福音をもたらしてくださる御方と言うのはこういったお方なんだ。これをハイデルベルク信仰問答の問27は示しているわけなんです。
 ここに、今日の8章31節にあった『神さまが味方である』とはどういうことなのかが、示されていると思うんです。『神さまが味方である』ということ。それは良い時もあれば悪い時もあるか神さまの摂理のもとに生きるということであるわけです。つまりそれは神さまの援護をもらって自分の望みを達成することが出来るようになるということではない。
 そういう意味では「味方」という言い方はあんまりピンと来るものではないかもしれません。ギリシャ語聖書では、この部分をそのまま訳すと「神がわたしたちのためにあって下さる」そのように訳されています。「神さまがわたしたちのためにあって下さる。」それは繰り返しになりますけれど、わたしたちの願いを叶えて下さるとか、力を貸して下さるということではないわけです。神さまはわたしたちの想像をはるかに超えた仕方でわたしたちに救いを与えて下さるわけです。ですから神さまを味方につけたわたしたちがすることは、自分が抱く望みや願いへの手助けを神さまに求めるだけではなく、神さまがわたしたちのために何をして下さるのか、何を与えてくださっているのかという、その御心を知ろうとすること、み言葉に聞いていくということであるわけです。

 神さまがわたしたちのためにして下さっていることが何であるか、それは次の32節で語られています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。神さまはこの地に今生きているわたしたちのため、またこの地に今まで生きていた全ての者のため、そしてこれから生まれてくる全ての者の味方として「御子をさえ惜しまず死に渡された」。つまりイエスさまを十字架におかけになったと聖書は言うんです。神さまがわたしたちのためにして下さったのはイエスさまの十字架なんだ。神さまが味方であるということは、神さまの独り子であられるわたしたちの主イエス・キリストの十字架の死にはっきりと表され示されているということなんです。
 したがって。したがって、です。このようなことが言えます。わたしたちがどれだけ満たされて豊かな人生を送っているのかどうか、自分の欲しいものを手に入れて願いや夢を叶えているのか、思い通りの人生を生きることが出来ているかどうかで神さまが味方であるのかどうかを決めるのは全く的外れなことなんだと言うことが出来るわけです。
 それはどういうことか。神さまが自分の思い通りになるかどうかで信じることを決める、信じようとするということは、せっかくわたしたちの味方としてわたしたちのために御子を十字架につけてくださった神さまに対して、背を向け、背負うことなど到底できやしない自らの人生を自らで背負って、味方ではなくなってしまった神さまと対峙せざるを得なくなるんだ。神様と敵対することになるんだということなんです。神さまはわたしたちすべての者のためにその御子をさえ惜しまず死に渡された方である。パウロは神さまをそのように言います。神さまがわたしたちに与えてくださった恵みをそのように言うわけです。
 神さまはそのようなことをする必要が全くないにもかかわらず、わたしたちの救いのために、それがあなたたちにとって必要なものだからと、御心によってその恵みをわたしたちに与えて下さったのです。わたしたちの救いのために御子の十字架が必要であった。それはわたしたちが罪人であるからです。イエスさまの十字架の死は、わたしたちの罪を全て背負われた、まさにわたしたちの代わりに死んでくださったことであるわけです。本来であれば、神さまに背き、神さまに見捨てられ、呪われたものとして木にかけられるべき罪人はわたしたちであった。しかしイエスさまはわたしたちの救いのために十字架の道を進み行きその命を捧げてくださったのです。32節にある「わたしたちすべてのために」の「ために」と言う言葉は「代って」とも訳すこともできるそうです。つまり神さまは、わたしたち罪人を救うために、わたしたちに「代って」イエスさまを死に渡して下さった。
 そしてこの十字架によってわたしたちの罪はイエスさまに「代って」赦された。イエスさまの十字架の死による罪の赦し、そして示された神さまの愛。これこそが「神さまが、わたしたちの味方である」ということの具体的な内容であり、またその証明でもあるわけです。このように御子でさえも惜しまずに死に渡して下さった神さまであるわけですから、御子と一緒に全てのものをわたしたちに賜らないはずはないと32節後半でパウロは語っているわけです。
 神さまが味方であるとは神さまがすべてのものを与えてくださるということです。神さまがすべてのものを備えてくださるということです。つまり神さまがわたしたちに必要であると顧み、ご配慮された最善の道を神さまの導きによって歩ませてくださるということであるわけです。

 このことを信じる喜びが、ハイデルベルク信仰問答の問28の答えにあります。神さまの創造と摂理を知ることでわたしたちはどのような恩恵を受けることが出来るのかという問いの答えです。このように書いてあります。「わたしたちが逆境においては忍耐強く、順境においては感謝し、将来についてはわたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物も、この方の愛からわたしたちを引き離すことが出来ない確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは、動くことも動かされることも出来ないからです。」
 わたしたちは逆境においてはもろい存在です。時に「よくこのような道に追い落としてくれた」と神さまを憎み、隣人を羨み、環境を、周囲を恨みます。そして順境、順調な道を歩んでいるときは、自分の努力が実ったからであり当然の結果であると鼻を高くし、高ぶり、他人を憐れみ見下します。自分自身で世界が完結し、自分の行いが結果に直結し、自分の行いが功績として積みあがっていくのだと心のどこかでわたしたちは考えるときがある。しかし、そうではないんだと神さまは言います。そして神さま信じるならば、この世界が大きく変わるんだと言うんです。全てがひっくり返る。
 逆境においては、これも主なる神さまの導きだ、これも備えてくださった道だと信じて一歩一歩踏み出していくことが出来るし、順境にあれば、これも主なる神さまが与えてくださった恵みだと神さまに感謝し、そして、わたし自身で手に入れたものではないのだから神さまに少しでもお返ししよう、他の人々と分かち合おうとすることが出来るようになるんです。それはなぜか、それは『神さまが味方になってくださった』からです。神さまが味方となったということは、もう誰もわたしたちに敵対するものはいないということです。すべてのものは味方となり、兄弟となり、そして最後、神さまによって罪許され、復活し、永遠の命を与えられているということが神さまが備えてくださった道として決まっているのです。もし神さまを信じず負けたら終わりの人生を歩むのであれば、目の前の一戦を絶対に落とすことは出来ません。毎日が命を懸けた戦いです。プレッシャーの中、いら立ちの中、自分の周りには敵しかいないという恐怖の中で生きることになる。世における人生において、わたしたちはいくらでも負けていいんです。わたしたちはすでに最後に勝つことが決まっている。神さまが味方なんですから。

 「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 この確信を、この喜びをわたしたちは与えられています。そして神さまが味方であるだけでなく、その神さまの軍勢に入った愛する兄弟姉妹が主の体なる教会にたくさんいるわけです。この教会に留まらず、この岡山県西部地区、今日はすべての地区の教会の方がおられるわけではありませんが、その地区の教会に連なる一人ひとりが、いや、それだけにとどまらない。日本の、世界のすべての教会で神さまを賛美し礼拝するものがそうなのです。そのような愛する者たちに囲まれて、わたしたちは生きていくんです。神さまを信じるということは本当にありがたいことだと思います。わたしたちの何もかもが、神さまの御手が触れられ備えられた良いものとなるのです。こんなに幸いなことはないと思います。この幸いにわたしたちは招かれている。この幸いに、ここにいるみんなで共に生きていきたいと願います。

2025年5月25日礼拝説教