礼拝説教「わたしは道、真理、命」
聖書箇所:サムエル下 1:17〜27、ヨハネ(一) 2:1〜11、ヨハネ 14:1〜11
今日お聞きしましたヨハネによる福音書の14章は、ヨハネによる福音書の13章から17章まで続いている、いわゆる告別説教と呼ばれるイエスさまが十字架にお架かりになる前の日の夜に最後の晩餐の中で語られた説教の中の一部分になります。イエスさまはこの告別説教において、これからイエスさまご自身に起こること、つまりイエスさまが十字架にお架かりになって命を捧げられることを弟子たちに告げるわけなんですね。
もちろんそれだけではなく、イエスさまはこれから起こることのすべてを弟子たちに告げられます。十字架の上で死なれたのちに三日目に復活すること、そして天に昇られて父なる神さまの右に座られること、さらには聖霊が弟子たちに降ること、また再びこの地にイエスさまが来られることまで、十字架と復活と昇天と聖霊降臨、さらには再臨というイエスさまがわたしたちに行ってくださった救いの御業についてすべてをイエスさまはお話になったわけです。わたしたちに行われるすべての救いの御業がここに語られているということなんですね。そして、これらのことをイエスさまは、必ずそうなる。だから信じなさいとわたしたち信じるものへと招いてくださっている、そういった箇所になるわけなんです。
しかしこの告別説教を聞いていた弟子たちは、この時イエスさまがお語りになられたことをちゃんと理解できたかといえば、今日の聖書に書かれているトマスやフィリポの反応を見るかぎりそうではなかったわけです。イエスさまはまずこのように言われました。1節から3節です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」
3節の「行ってあなたがたのために場所を用意したら」と言われている、この「行って」とは一体何処へ行くのか。これはどこかのある場所に行くということではなく、十字架につけられ、そして死なれ、葬られた後に復活し、天に昇って、聖霊を注ぐという一連の救いの出来事に向かって行くんだということを指し示している「行って」を表しています。そして「あなたがたのために場所を用意する」というのは、イエスさまが父なる神さまの所に行って、天国を造って、弟子たちをもてなすための準備をするということではないんです。イエスさまが、弟子たちそしてわたしたちのために、背負いきれないほどの罪を犯すわたしたちの代わりに十字架にお架かりになり、わたしたちが受けなくてはならない罪の裁きをその身に負ってくださり、それによって父なる神さまとわたしたちの関係を修復して、和解させてくださる。そのことによってわたしたちが父なる神さまのもとに行くことが出来るようにしてくださるということを表しているんですね。
そして、イエスさまが三日目に復活されることによって死に打ち勝って、イエスさまがこの地に再び来られる時、わたしたちも永遠の命を得、神さまと共に生きるものとしてくださる。またイエスさまが天に昇られた後に、聖霊を注ぐことによってわたしたちに信仰を与え、そして聖なるお名前とその神さまの御栄をあらわす教会とお立てになり、そこに集うものたちを神さまの子としてくださるということをお語りになっているわけです。つまり今私たちが信じていること、わたしたちに起こった救いの出来事がここに書かれているわけです。そして3節の後半でイエスさまは「あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。と言われました。まさにイエスさまによって用意されたところ、天の国と言っても良いと思うんですけれど、そこはイエスさまのいるところであって、そこにおいてわたしたちはイエスさまと一緒にいることになるんだ。イエスさまは、十字架にお架かりになる前にこのことを弟子たちに告げたわけです。
どうしてイエスさまはこのようなことを言ったのでしょうか。それは弟子たちがイエスさまの十字架の死の出来事によって、すべてが終わってしまったという思いを抱き、希望を失い、神さまから背を向けた挙句に死の闇へと飲み込まれてしまうことを心配したからです。イエスさまは自らの死というものにどれほどの力があるのか、そしてその力故に弟子たちに「もう無理だ」と「全て終わってしまった」と思わせるものであるということを知っていたわけです。
1節に心を騒がせるなと言う言葉が出てきます。この言葉はイエスさまがご自身の感情を、もっと言うなら十字架を目の前にしたときの感情を表す際によく用いられる言葉であると言われています。そしてその言葉を弟子たちにここでは使っているんです。それは弟子たちがイエスさまの十字架の死に対して心を騒がせることをイエスさまはわかっていたからであるわけです。ですからイエスさまが十字架で命をおささげになる前に、十字架の死によってすべてが終わるのではない、いや、むしろそこからすべては始まるんだということをイエスさまは弟子たちに教えられたわけです。それが告別説教であり、きょうの箇所でもあります。
弟子たちはイエスさまと共に歩んで来たわけです。イエスさまの声を聴き、イエスさまの御業を見、イエスさまとの交わりの中に生きていた。イエスさまが十字架につかれることによって、イエスを見たり、声を聞いたり、触れたりということは出来なくなる。しかしながら、このイエスさまとの交わりや、イエスさまと共にいたこと、イエスさまとの交わりの中に生きていることは、十字架の死によっても少しも損なわれることはないんだとイエスさまは言うわけです。それどころか、その交わりは死をも突き破って、われわれが終わりとしているその先、とこしえに続くものなんだ。そのことをイエスさまは弟子たちに告げられます。この十字架の死を超えて続く交わりこそが弟子たち、ひいてはわたしたちに与えられている救いであるわけです。そしてその救いに至る道を「あなたがたは知っている」そのようにイエスさまは言うわけです。
このイエスさまの言葉に対して5節でトマスはこのように問いかけをします。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」。そういったんです。トマスはイエスさまが父なる神さまのもとへ行って、私たちのための場所を用意して下さると言うんだけれども、それが一体どういうことなのか、父なる神さまのもととはどこなのか、場所を用意するということはどういうことなのかわからなかったわけです。イエスさまに従っていく信仰の中において、わたしたちもイエスさまの道を歩むことが求められているのだろうけれども、それはどのような道で、どのように歩んでいったらよいのかがわからない。そう思うことがあります。今日の聖書でトマスがイエスさまに問いかけたことを、繰り返し問い続ける歩みがわたしたちの歩みであるわけです。
このトマスの問いかけからひとつわかることがあります。それはトマスをはじめ弟子たちは、救われるために、自分自身がどのように歩むべきかを知ろうとしてイエスさまの後に従って歩んでいるということです。つまりトマス、弟子たち、そしてわたしたちはイエスさまの教えを求めていただいた教えを忠実に守り、その後にただ従っていくことによって救いに至る道を見出そうとしているということがです。イエスさまはご自身が弟子たちの救いを成し遂げて下さろうとしてこれから起こる御業のことを教えているのに対し、トマスは自分自身が救われるために歩くべき道を求め、イエスさまがお語りになることを聞いていたわけです。それではかみ合わないわけです。イエスさまがここでお語りになっている道とは、トマスが考えているように人間が選び取り、自らそれ成すために歩いて行くような道ではないわけです。むしろそれはイエスさまご自身が歩んで下さった道であるわけです。わたしたちはイエスさまが歩まれたその道の結果、救いを頂いているに過ぎない。わたしたちはイエスさまが十字架の道を選んでくださったから、今この瞬間がある。わたしたちはそれを選んだわけではない。イエスさまが選んだ道を、父なる神さまの選びによって歩ませていただいている。
イエスさまはこのように言われます。「わたしは道であり、真理であり、命である」。道と言うものについて誤解しているトマスに向かってイエスさまは言うんです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。つまりイエスさまはわたし自身を通りなさいといわれるわけです。イエスさまは、ご自身がお語りになる言いつけを守り、自らの力で弟子としての信仰生活を歩み通すことこそ道であり、それによって真理にたどり着き命が得られると言っているのではないんです。そうではなく、イエスさまご自身が道であるといわれます。イエスさまの語ることを聞き、それを実践するによって救いが獲得できるのではなく、道そのものであるイエスさまを通ることによって、父なる神さまの下に行くことが出来るんだと言うわけなんです。
ただイエスさまの教えに従って、み言葉にこう書いてあったといって、それを守る人生を歩むことによって救いに預かろうと考えるとするなら、それは結局自分の力によって父なる神さまの下に行こうとしているに過ぎない。そしてそういった信仰生活を自ら選んでいるということになるわけなんです。
それは道であるイエスさまを通らずに、自分自身が主人となって道を判断し、その道を通って父なる神さまの下に行こうとする姿勢であると言うことができます。そのようなトマスに対してイエスさまは「わたしこそ道である」とはっきりとお語りになるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。イエスさまは言います。神さまのみ言葉を受け止めてイエスさまに留まることこそが大事なんだということなんです。
イエスさまこそが道であるわけです。それはイエスさまの生き方をわたしたちも見倣って同じような道を歩もうとか、イエスさまが語られていたこと聖書に書いてある教えに従ってよい行いをしていくんだということではなく、イエスさまに留まり、イエスさまによって救われて、御言葉に生かされて、聖霊に導かれるところに、わたしたちの歩むべき道が示されていくということであるわけです。
それはつまりどういうことなのか。1節の言葉に帰って来ます。「神を信じなさい、そして、わたしをも信じなさい」。わたしたちの救いはわたしたちではどうにもできない。わたしたちを本当の意味で救うことが出来るのは、死と滅びから救うことが出来るお方はイエスさまだけなのだ。そのことを確かなものであると、その信仰を告白し、御言葉に聞き、祈り、賛美し、礼拝を捧げるためにわたしたちは生きている。神さまと、神さまを信じる兄弟姉妹と共に生きる喜びの人生を歩むことこそ、わたしたちの歩む道であるわけです。
「どうして、その道を知ることができるでしょうか」とイエスさまに訪ねたトマスは、この後ヨハネによる福音書の最後の場面に登場します。復活されたイエスさまと出会うんです。イエスさまと出会ったという他の弟子たちの言うことを信じられずに、イエスさまの手の釘の跡とわき腹に触れてみなければ信じないと言っていたところに復活されたイエスさまが現れるんです。そこでイエスさまは、手とわき腹に触れるようにと言いながらご自身を示して下さいました。それによって、トマスは「わたしの主、わたしの神よ」との告白をすることができました。それは自分の力で救いを得ようとして道を求め、その道の教えを説いてくださる方としてイエスさまに従っていたトマスが、真の神、救い主としてイエスさまを受け入れた時であったわけです。トマスは自らの力で救いのために歩むべき道を捜し求めていた時、イエスさまのために死ねるとまで考えていましたし、それを公言するほどでした。しかし実際はトマスは死ななかった。いや死ねなかった。
そしてトマスは気が気づくわけです。逆だったんだと。自分がイエスさまのために死んだのではなく、イエスさまの方が自分のために死んで下さり、救いを成し遂げ、父なる神さまとの関係を回復して下さったことを教えられた。イエスさまこそ神ご自身であって、イエスさまによって神さまの愛と救いが現されていることを知らされたわけです。イエスさまが道であったということを知ることが出来たわけです。
そしてわたしたちも知っているわけです。イエスさまという道の先は父なる神さまがおられる。その神さまは独り子をわたしたちの生きるこの世にお与えになったほどに、そしてその独り子をわたしたちの罪の贖いのために十字架につけるほどにわたしたちを愛して下さっているんだ。そしてイエスさまのもとに留まることによってこそわたしたちはその神さまの愛、また真理を知り、それによって生かされていくわけです。それゆえにイエスさまは道であって命でも真理でもあるわけです。イエスさまのもとでこそ私たちは神さまの愛によって生かされます。イエスさまの十字架と復活による救いにあずかり、罪を赦され、心騒がせる世の闇から解放され、新しい命を生きることができる。そして今日もこの礼拝に招かれて、わたしたちは神さまを礼拝し、賛美し、祈ることを許されている。それはイエスさまの恵みと神さまの愛によってであるわけです。その恵みの道を。イエスさまが備えてくださり、イエスさまが共にいてくださる道を、喜びと恵みの人生を、ここにいる皆で共に歩んでいきたいと願います。
2025年5月18日主日説教
