礼拝説教「わたしは復活であり、命である」
聖書箇所:ネヘミヤ 2:1〜18、コリント(一) 12:3〜13、ヨハネ11:17〜27
ヨハネによる福音書の11章にはヨハネによる福音書の中で最も重要な、最も周囲に大きな影響を与えた奇跡、御業が語られているんです。それは何かというと、ラザロという人がイエスさまの御業によって生き返ったことであるわけです。
今日お読みしたところの少し前の部分、1節から16節までの部分にラザロの死が語られています。ラザロという人はベタニアというところに住んでいる人です。ベタニアはエルサレムから少し離れたところにある村です。そのベタニアでラザロはマルタとマリアという二人の姉妹と一緒に暮らしていました。このマルタとマリアの姉妹はルカによる福音書の10章にも登場します。働き者の姉マルタとイエスさまのとなりに座って話を聞く妹マリアの話、そう聞くと思いだす方がいるかもしれません。このマルタとマリアの姉妹には兄弟がいました。それがラザロであるわけです。つまりこの三人はイエスさまを信じ、イエスさまに聞き従う者であったということなんです。ラザロ、マルタ、マリア、彼らはイエスさまを信じ、従い、愛し、また同じようにイエスさまから、愛されているものたちであった。
そのラザロが病気になり死の床に伏し、死の危機にさらされていると言うことが11章の1節から16節までの部分で語られます。マルタとマリアの姉妹はイエスさまに使いをやって「主よ、あなたの愛しておられるものが病気なのです」。つまりラザロが病気になったとイエスさまに伝えました。イエスさま、どうか一刻も早くベタニアに来てラザロを癒して下さい。そういった願いをメッセージに込めイエスさまのもとに使いをよこしたわけなんです。しかしイエスさまはそういった二人からのSOSを聞いてもすぐに向かうことをしませんでした。その間にラザロは死んでしまうんです。
そして、今日お読みいただいた17節からの部分になるわけです。今日の箇所はイエスさまがベタニアに到着して姉のマルタとやりとりをする。その二人の会話が中心になっているんです。イエスさまがベタニアに到着したときには、すでにラザロは墓に葬られていて四日経っていたということが書かれています。当時の聖書の時代の習慣ですと人が亡くなるとすぐにその遺体を墓へと葬ります。葬られてから四日経っていたということは、ラザロが死んでから四日経っていたということです。ラザロ、マルタ、マリアたちはイエスさまに従って生きていましたけれど、彼らはユダヤ教の文化の中にいました。ラザロはユダヤ教に従った葬儀で葬られたわけです。ユダヤ教の葬儀は七日間続きます。七日間何をするのか。最初の三日間は泣く日です。みんなで亡くなった人がいかに大切な人であったかを表すため泣くんですね。人によっては泣き屋という泣くことを仕事にしている人を呼びます。そして三日間泣き悲しんだあと、四日間嘆くわけです。当時の人々は、死んでから三日間は体を離れた魂がまた戻って来る可能性があると考えていたようです。しかし四日経って遺体が腐敗してくると、もう魂が戻って来ることはない、生き返える可能性がないと嘆き、亡くなったものの家族を慰めに行くわけです。愛する兄弟であるラザロを失い悲しみの中にあったマルタとマリアのところにも、多くのユダヤの人々が慰めに来ていました。そういった四日経って、確かにこのラザロという人間は亡くなったのだということが彼らの間で確定したタイミングでイエスさまはベタニアへとやって来るわけです。
ベタニアに到着したイエスさまを迎えたのはマルタでした。マルタはイエスさまを出迎えるなりこのように言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。マルタはイエスさまがここにいて下さったならラザロの病気が癒され、このようにして死ぬことはなかった。そう言います。マルタはイエスさまが病の人を確かに癒されるという力を持った救い主であられることを信じているわけです。だからこそマルタもそうですし、マリアもイエスさまのもとに使いをやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と知らせたわけです。
そのマルタとマリアのイエスさまへの信頼は、ラザロが死んでしまった今も変わってはいませんでした。だからこそマルタの言葉には「なぜもっと早く来て下さらなかったのですか」という思いが込められているように思います。イエスさまが兄弟を助けてくださると信じ願ったにもかかわらず、イエスさまは来て下さらなかった。そして今わたしたちは兄弟を失った大きな悲しみ、苦しみの中にいる。マルタとマリアはそのように感じていたのです。しかし同時にマルタはこのようにもイエスさまに言います。22節です「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。
マルタはこう言います。「今でも」。ラザロが死に、葬られてから四日経ち、彼が帰って来ないということがわかっている今でもわたしはあなたを信じている。そう言うわけです。兄弟を失った悲しみの中でもマルタはイエスさまが父なる神さまへ願ったことは必ず叶う。父なる神さまが必ず叶えて下さるということを信じているわけです。つまりイエスさまが父なる神さまに願ってくださるなら、確かな救いが実現する。イエスさまこそ、悩み、苦しみ、悲しみの中にあるわたしたちに救いを与えて下さる方であるということを信じ、イエスさまによる助けを今でもマルタは期待しているわけです。
そのように期待を寄せるマルタに対してイエスさまはこのように言います。「あなたの兄弟は復活する」。そう宣言されるのです。兄弟の死という悲しみに直面しているマルタに、ラザロの命を奪い、マルタとマリア、また彼ら兄弟と交わりのうちにいる人々を悲しませている死は滅ぼされる。あなたの兄弟には新しい命が与えられ、あなたからは悲しみが取り去られる。そういった救いをイエスさまはマルタに対して宣言して下さった。今でも信じている。どんなにつらいことがあっても、厳しい現実が立ちふさがっても、しかしそれでもわたしはあなたを今でも信じる。そのように言うものに対してイエスさまは言うのです。あなたの兄弟は復活する。あなたの願いはかなえられる。あなたの期待にわたしは応える。そのようにイエスさまはわたしたちに言われるわけです。
しかし、このイエスさまの宣言を聞いたマルタはこのようにイエスさまに答えました。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。「終わりの日」、それは神さまによってこの世にもたらされる日、いわゆる終末の日であるわけです。父なる神さまによる天地創造によって始められたこの世界は、神さまによって終わりの日を迎え、神さまによって終わりの日がやってくる。その終わりの日に、先々週も言いましたけれども、救いが完成すると聖書は語っているわけです。この世の終わりというのは、世界が滅び去るのではなく神さまによって救いが完成する時であるわけです。この終わりの日に死は滅び、死に支配されることのない新しい命、永遠の命を生きる新しい体が神さまを信じ生きるわたしたちに与えられる。それが終わりの日の復活であるわけです。わたしたちは肉体においては必ず死ぬ、世を去らねばならないものたちですが、終わりの日の救いの完成において復活し、永遠の命を生きる者とされる。聖書はそのような救いをわたしたちに語り、そしてわたしたちはそれを信じて生きるわけです。マルタはイエスさまの「あなたの兄弟は復活する」という宣言を、この「終わりの日の復活」のこととして受け取りました。つまりイエスさまが告げて下さった救いは未来のことである、この世の終わりに約束されているものだと受け取ったわけです。
わたしたちもマルタと同様にイエスさまによる救いを受け止めていると言えます。神さまの独り子であるイエスさまが、わたしたちの罪のために十字架にかかり復活して下さった。このことによって神さまがもう一度わたしたちを神の子としてくださり、罪の赦しと復活と永遠の命を約束して下さる。この永遠の命の御業は、最後、この世の終わりに実現することである。イエスさまによる救いは将来の約束として、また希望として与えられているのであって、現在の人生において実現するものではないのだ。この世の人生には今なお苦しみがあり、悲しみがあり、痛みがあり、争いがあり、愛する者の死があり、わたしたちの死がある。しかしそのわたしたちのために終わりの日、イエスさまがこの地に到来するその日に復活させられ、永遠の命に生きる者とされるという約束と希望が神さまによって与えられている。このことを信じて、例えわたしたちの人生から悩みや痛み、苦しみや悲しみ、罪が消えることがなくともそれでも希望をもって、神さまと、また神さまを信じる一人ひとりと今日を、そして明日を生きていく。これこそがイエスさまを通してわたしたちに示されている信仰であり救いであるわけです。わたしたちも、マルタも「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」という信仰に生きるものであるわけです。
そういう意味ではマルタの信仰というものは非常に正しいものであると言えます。そしてマルタは兄弟であるラザロの死を三日間泣き悲しんだのち、痛みと共に受け止めたということがわかります。イエスさま、あなたが来て下さったならラザロはきっと死ななかった。でも、わたしはこの世の終わり、終末にまたラザロと出会うことが出来るのを信じている。確信している。イエスさまそうですよね?マルタの言葉からそういった思いを読み取ることが出来るわけです。
しかし、今日の聖書の本題はこの後にあるわけです。終わりの日の復活を信じているという正しい信仰をもってイエスさまに呼びかけたマルタに対してイエスさまはこのように言うんですね。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」。
この言葉は未来のことを表しているのではなく今現在を起きていることを表しています。つまり、イエスさまがマルタに言われた「わたしは復活であり、命である」。この言葉は終わりの日の救いを言っているのではなく、この時、今イエスさまによって実現している救いを語っているわけです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」という言葉にそのことが表されているわけです。わたしは復活であり命である。わたしを信じる者は死んでも生き、決して死ぬことはないという救いをもう今この瞬間に与えられているんだ。その救いを与えられている中、今この瞬間を生きているんだとイエスさまは言っておられるわけです。イエスさまご自身が復活であり、命であると信じる信仰に生きるとはそういうことだと、イエスさまはマルタに、そしてわたしたちに語り掛けてくださるわけです。
死後復活する。永遠の命を与えられる。確かにその通り。ではその救いを与えられてこの世における人生を一体我々はどのように生きるのか。それは、復活し永遠の命の生きるようになるその日まで、神さまによって与えられたこの命を、イエスさまによって救われたこの人生を、復活であり、命であるこの人生を全うする。これなんです。神さまと共に生き、神さまと共に生きることを誓い洗礼を受けたここにいる主の家族と共に、礼拝を守り、共に生きる。その喜びの人生を全うするんです。神に生き、愛に生き、隣り人に生きるんです。
マルタにとって四日目というのは非常に大きいものであったわけです。ラザロが死んで四日経った。彼はもう帰って来ないだろう。この先、終わりの日にまた会うその時まで、出会うことの出来ない存在になってしまった。マルタにとっての四日はそういった大きい、超えることの出来ない壁であったわけです。わたしたちにも同じような、ラザロの死んだ四日目のような、確かに信じているけれどでもこれは無理だというようなこの世の理に引っ張られてあきらめて手放していることが、超えることが出来ないでいる壁がそれぞれにあります。しかし、イエスさまはその四日目を越えてくださる御方です。そのことを信じたいのです。この後イエスさまはラザロを復活させられます。そしてイエスさまご自身は、わたしたち人間の罪を背負い三日目に蘇ってくださいます。わたしたちを復活と永遠の命に生かしてくださるその御業を行ってくださった。そしてわたしは復活であり命であるという救いの人生に今、わたしたちを生かしてくださるのです。
ある哲学者は「人間は死へと向かう存在である」と言いました。わたしの好きなバンドの歌詞にも、毎日たったすこし、わたしたちは死んでいくという意味の歌詞があります。しかしイエスさまはわたしたちを、その御業によって永遠の命へと向かうものへと、永遠に滅びることのないものへと変えてくださいました。最後イエスさまはマルタにこう問います。「このことを信じるか」。マルタはこのように返します。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。マルタはラザロの復活をまだ見ていません。この後ラザロはイエスさまによって復活させられます。しかしマルタは確かに「はい、主よ」と答えます。今なお死と悲しみと苦しみに満ちあふれているこの世を生きている中で、マルタはイエスさまの「わたしは復活であり、命である」という言葉を確かに信じたわけです。
「このことを信じるか」。礼拝においてイエスさまはいつもわたしたちに問いかけでくださいます。わたしは復活であり命である。そのことを信じる救いの人生に共にいきようではないかと問いかけくださるのです。愛をもって、慈しみをもってかけられるその恵みの問に、感謝をもって答えたいと願います。
2025年5月11日主日説教
