礼拝説教「わたしたちは既に見ている」

聖書箇所:列王上 17:17〜24、コロサイ 3:1〜11、マタイ 12:38〜42

 今日の新約聖書の福音書の箇所、マタイによる福音書12章38節〜42節の箇所には「人はしるしを欲しがる」という小見出しが付いています。この小見出しにあるようにこの箇所では、何人かの律法学者とファリサイ派の人々が、イエスさまに「先生、しるしを見せてください」としるしを求めた。そういったことが書かれているんです。彼らが求めたこのしるしとはなんであるか。それはイエスさまが父なる神さまから遣わされ神の子、救い主であるという何らかの証拠です。はっきりとした証拠が欲しいので見せてくださいと彼らはいうわけなんです。彼らはこう思っていたわけです。本当にイエスさまは神の子なんだろうか。救い主なんだろうか。そういった思いがあった。そしてそういった思いが解決されるような確かな証拠を、何でもいいからわたしたちに見せてくれとそう言ったわけなんです。

 しるしを見せてください、もししるしを見せていただけるのであれば心からあなたを神の子であると信じましょう。そのように言うということはつまり、しるし、証拠がなければわたしたちは信じるがことはできないと言っているようなものであるわけです。確かにイエスさまが真の神の子であるのか、救い主であるのか確かな証拠が欲しい、そう思うのは人間誰しもが抱くものであるわけです。イエスさまと対立していた律法学者たちやファリサイ派の人々だけでなく、弟子たちにも同じようにしるしを見せてくれなければわたしは信じないと言ったものがいたわけです。ヨハネによる福音書の20章に、イエスさまの弟子であるトマスという人が出てきます。トマスはイエスさまが復活されたことを他の弟子たちから聞いたとき、その復活を信じることが出来ずに「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」そう言ったわけです。ただ話を聞いただけでは、わたしはそう簡単には信じない。自分の目と手で確かめてみなければ信じることはできないとトマスは言ったわけです。トマスが他の弟子たちに、あの方に会ってこの指を釘の後に入れなければわたしは信じないと言った感覚は、別にトマス独特のものではないとわたしは思うわけです。おそらくわたしたちもトマスと同じように、信じるに値するはっきりとした証拠、しるしを求めるのではないかと思うわけです。話を聞いただけでそうなんだと信じることなく、この目で見ることで確かにそうだと確信したいと願う。つまり今日のマタイによる福音書において、律法学者たちやファリサイ派の人々がイエスさまに行った求めというのはわたしたちのうちにある求めであると、そういうことも出来るわけです。

 しかししるしを見たいという彼らの望みに対して、イエスさまはこのようにお答えになるわけです。39節「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」。そうイエスさまは言うわけです。
 しるしを欲しがるものは「よこしまで神に背いた時代の者たち」であるとイエスさまは彼らに言うんです。まことの神の子であると解る証拠を求めしるしを欲しがる者は、よこしまで神に背いた時代の者であり、しるしを求めるということは、よこしまで神さまに背いた時代を生きていることの現れだとイエスさまはいうんです。
 ある先生がこの聖書箇所の説教においてこういったことを言っていたんです。わたしたちが「時代」という言葉を口にするときは受け身なんだ。わたしたちは受動的にこの「時代」と言う言葉を使っているんだと、そう言っているんです。どういうことかと言うと、例えば「今はこういう時代なんだよ」と言うときに「時代」というものをわたしたちの外側の、関係のない事柄としてわたしたちは受け止めているんと言うんです。わたしたちの力の及ぶことのない、干渉することの出来ない時の流れというものがあり、わたしたちはそれに影響され翻弄されている。時代とはそう言うものだとわたしたちは言う。      
 しかしそうではないんだと言うんです。この節に出てくる「時代」という言葉は「生まれる」という意味の言葉が変化したものです。そこから転じて「世代」という風にも訳すことが出来る。世代というのは一人の人が生まれ生きている間の期間を指します。この世代という言葉はその時代に生きる人間とは関係なく外に流れているものではなく、人間そのものを指す言葉であるわけです。つまり、その時代を生きて構成しているのはわたしたちなんだというわけです。時代という言葉はわたしたちの外にあるように聞こえても、実はわたしたち一人ひとりによって構成されているもの、つまり能動的なものとして理解されるものであると、そう先生は言われているんです。
 したがって今日の聖書がいうよこしまな時代、今が「よこしまで神に背いた時代」であるとするならば、それは今を生き、その時代を構成しているわたしたちがよこしまであって神さまに背いているんだということになるわけです。つまり、イエスさまにしるしを求めた律法学者やファリサイ派の人々もそうであるし、確かに見えるものを信じようとしてしまうわたしたちも、人間というものが、よこしまで神さまに背いた時代のものであるということが出来るわけです。
 このよこしまで神に背いた時代の、この「神に背いた」と言う言葉は「不義である」という意味を持ちます。そこから「姦淫の罪を犯している」という意味も持つ言葉なんです。つまりこの部分はよこしまで、不義であり、姦淫の罪を犯している時代とも訳すことが出来ます。「姦淫」とは、十戒にも姦淫を犯してはならないという戒めが出てきますけれど、夫婦の関係を裏切っている不貞行為を主に指します。イエスさまはここでしるしを欲しがるものたちは姦淫を犯している時代に生きているものだ。もっと言えば、姦淫の罪を犯しているからこそおまえたちはしるしを欲しがるんだと言われたわけです。

 イエスさまがここで何を言われているか。それは、おまえたち皆不貞行為をしていると言っているわけでは当然ありません。聖書において、主なる神さまとその神の民であるイスラエルの民の関係、この神と神の民との関係は結婚した夫婦に例えられてきました。主なる神さまはイスラエルの民を選び、シナイ山において特別な契約を結んだわけです。神さまはイスラエルの民をご自分の民とし、イスラエルの神となったわけです。その神さまとイスラエルの民において結ばれた契約が結婚の誓約と重なるものとして捉えられている。
 しかしイスラエルの民たちは神の民とされながら神さまを裏切った。カナンの地に辿り付き生活を始めた民たちは、元々カナンにおいて信じられていた他の神々を拝み礼拝するようになった。偶像礼拝をするようになったわけです。このことはホセア書をはじめ旧約聖書に出てきます。旧約の預言者たちは、民たちが犯した裏切りを姦淫の罪であるとして厳しく指摘しました。妻や夫が結婚の誓約を破り別の人へ行く、そういった姦淫の罪をイスラエルの民は主なる神さまに対して犯していると言ったわけです。イエスさまの言われた「よこしまで神に背いた時代」という言葉の裏にはそういった意味が込められているわけです。イエスさまはしるしや証拠を求めた律法学者やファリサイ派の人々は、そういった姦淫の罪を犯しているものたちと同じなんだ。もっと言えば、しるしを求めて生きてしまうわたしたち人間は、偶像崇拝という姦淫の罪を犯すものなんだと言っているわけです。

 そうすると一つ疑問が出てくるわけです。イエスさまにしるしを求めた律法学者たちやファリサイ派の人々は。主なる神さまを裏切り他の神々を拝んではいないわけです。彼らは神さまがイスラエルの民に与えられた律法を誰よりも懸命に学び、礼拝をささげていました。それらは神さまを裏切っては出来ないことです。では、なぜイエスさまは彼らに向かって「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」と言われたのでしょうか。 
 先ほど、神さまとイスラエルの民との関係は度々結婚関係に例えられ、姦淫の罪を犯したと何人もの預言者たちに指摘されたことをお話しました。イスラエルの民は荒れ野の四十年を過ごした後、カナンの地へと導かれ定住するようになりました。定住するということは生活が変わるということです。今まで彼らは狩猟採集民族でした。そこから畑を耕す農耕民族へと変わっていったわけです。その中で彼らは生活と同じように信仰を変えていってしまった。カナンの地ではバアルという天候や農作物の収穫を司る神が信じられていました。このバアルを彼らは徐々に信じるようになるわけです。畑の作物を豊かにしてくれる豊穣を約束してくれるという神を信じ拝むようになっていったんです。つまり、民たちはこのような神こそが、自らの必要としているものを与えてくれる神であると信じるようになってしまった。それはこのバアルという神が、作物の豊作という目に見えるしるしを与えてくれたからであるわけです。人間の求めに応える、自分の求めに応じてくれる、自分の望んでいるものを与えてくれる。そういった神を求めるようになってしまった。つまり神を操る。人間の望むように神さまを造りかえることを彼らは行うようになってしまったわけです。
 しるし、証拠を見たなら信じるということは、つまりはわたしが信じるに値するものを与えてくれる、値することを行ってくれる神を信じるということであるわけです。自分たちの求めに応じてくれるなら、自分の求めや願いを与えてくれるなら、あなたを神さまであると信じましょう。ぜひそれを行ってください。それをしるしとして信じましょう。イスラエルの民たちはこのようにですね、主なる神さまに対して見えるものを、しるしを、利益を求めるようになっていった。そして最後には、バアルの方が自分の願いをきいてくれそうだと言って他の神々へと乗り換えてしまったわけです。このように姦淫の罪と、しるしを求めるということは同じ、人間の罪を表しているものであるわけです。

 イエスさまがわたしたちとの間に示されているのは、このような「しるし」ではないわけです。神さまとわたしたちの関係というのは「しるしをください」「はいどうぞ」という関係ではない。イエスさまが示されようとしているのは、わたしたちの求め、望みにどれだけ応えてくれるかということではないわけです。
 イエスさまはこう言います。「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」イエスさまがわたしたちとの間に与えられるしるしは「ヨナのしるし」しかないと言うんです。「ヨナのしるし」とは、40節にあるように「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」ということです。ここでイエスさまは旧約のヨナ書を引用されます。預言者ヨナという人がいて、ヨナは神さまからニネベの町の人々に、神さまの裁き、滅びが迫っていることを告げるように命じられるんです。しかしヨナはその命令に背いて船に乗って逃げ出すんですね。そしてその船の中で嵐に遭い、最終的に海に投げ込まれるんです。そして海に投げ込まれたところ、大きな魚に呑み込まれ、三日三晩その腹の中にいて陸地に吐き出される。ヨナは三日三晩魚の腹にいました。
 それと同じようにして、人の子、つまりイエスさまも、三日三晩大地の中にいて、最後はこの地に主なる神さまによって出されるとそういうわけです。これは何をさしているのか。十字架と復活であるわけです。イエスさまが十字架につけられ、殺され、葬られ、三日目に復活することを指しています。
 イエスさまは「預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」と言います。繰り返しになりますけれど、このしるしは、わたしたちがかなえたいもの、手に入れたいものをただ与えるのではないわけです。わたしたちが信じるに値するかを人間の側から計るものでもないわけです。このしるしは神さまが神さまとは一体どのような御方なのかということをわたしたちに示されるものであるわけです。
 ヨナのしるしによって示されていること、神さまがどのようなお方であるかということ、それは神さまがわたしたちを愛し、本当の意味で救おうとされるお方であるということです。食べるもの、経済的に困ることなく、また人間関係などに悩まされることなく、好かれたい人に好かれ、毎日食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、欲しいものを手に入れる。それは救いじゃないと言うんです。わたしたちの中には罪というものがあります。その罪はそういった仮初めのものでお腹を満たすことをわたしたちの人生の目的であるとそそのかし、際限なくその目的を果たし続ける人生へとわたしたちを誘導するわけです。その罪から解き放たれること、これこそが救いであると言うんです。
 わたしたちのその無限とも言える欲望を、そしてその欲望が引き起こす悲劇を、そして最後に待ち受けている死、滅びを、すべて背負い引き受けてくださったお方がいる。そのしるしこそイエスさまの十字架であり、復活であるわけです。神さまの独り子であるイエスさまはわたしたちの罪を背負い十字架にかかって死んで下さった。それによってわたしたちの罪が赦されている。それだけでなく、神さまはイエスさまを死者の中からよみがえらせてくださったわけです。この神さまの御業を信じるものは、確かに死に勝利されたお方であるイエスさまと共に、感謝と悔い改めの中を生きるものとなり復活と永遠の命の希望を与えられる。このイエスさまというしるしをわたしたちは既に与えられているのです。

 しるしを見なければ信じない、復活されたイエスさまを見るまでわたしは信じないと言ったトマスの前に表れたイエスさまはトマスにこう言います。「見ないのに信じるものは幸いである。」
 わたしたちは確かにイエスさまの十字架と復活を見ていません。2000年前の出来事です。わたしたちにそれを見ることは不可能でしょう。しかし、その2000年の間、それは確かにあったのだ、見たのだというその言葉を教会は信じ、教会に連なる一人ひとりが信じ、今日に至っているのです。
 わたしたちは既に見ています。イエスさまの復活と十字架を信じた人々が救われ、喜びをもって神さまと生きた姿を、生きている姿を、この教会を通して、またこの教会において捧げられてきた礼拝を通して、共に見させていただいています。そしてその歩みはこれからも続く。わたしたちは神さまによって救われた喜びの道を歩んでいきます。そしてこれから先もこの教会に、礼拝に招かれて、イエスさまを信じ、救われるものたちをわたしたちは確かに見ていくことになるでしょう。それを信じて歩んでいきたいと願います。

2025年5月4日主日説教