礼拝説教 「各々の賜物を生かす」

聖書箇所:ペトロ(一)4:7〜11

 「万物の終わりが迫っています」
 この言葉で今日の聖書は始まるんです。すべてのものが終わるというその時、いわゆる終末がすぐそこまでやってきているんだと言うわけなんですね。
 ペトロの手紙が書かれた時代に生きていた人たちは、イエスさまが主なる神さまによって復活させられ天にあげられた後すぐに終末がやってくる。そう信じていました。しかし、イエスさまが昇天されてから50年以上の月日が経過しても終末がやってこないことに戸惑い、彼らは次第に恐れを抱くようになっていったわけです。
 この彼らの恐れは、イエスさまの十字架と復活を目撃し信仰の道を歩んでいた世代の人々が一人、またひとりと召されていく中で「終末の前に召されてしまった人たちの救いはどうなるだろうか」「終末がやってくる前に、神さまを信じていると告白することなく、洗礼も受けずに召されてしまったひとたちの救いはどうなってしまうのだろうか」という新たな信仰の問題を引き起こすこととなりました。そして、それらの問題は当時の人々にこのような思いを抱かせた。「果たして終末は、万物の終わりは本当にやって来るのだろうか」。
 このように、当時から終末が迫っている、万物の終わりがすぐそこまでやって来ていると言われてそういったことを信じることの出来ない人々が多くいたわけです。それならなおのことと言ってはあれですが、2000年も後の時代を生きているわたしたちも同じであるわけです。わたしたちは終末がすぐそこまで迫っているという言葉を聞いたとしてもその切迫感を感じることがなかなか出来ないわけです。もちろんわたしたちは、いつかは万物の終わりがやって来ると信じていているわけです。けれども、それが自分とは関係のない、自分が召された先の未来に予定されている出来事のように感じるわけです。迫っているとか、すぐそこまで近づいてきているとか言われても、それが中々わからない。
 「むしろ」、終末がすぐそこまでやって来ているということを周囲に触れ回ったり、その切迫感の中に生きることは危ないと、信仰的に危険であるとそういう風にさえ思っているわけです。それは何故かというと、この世の終わりですとか、終わりの日、世界の終わりといった言葉が、教会だけでなく、日常的にも使われているということにあるわけです。この世においてわたしたちが何気なく日常的に使っているこの世の終わりと言う言葉には、多くの場合に、この世界、地球や宇宙が危機的な状況に陥って最終的に人類が滅亡する時として語られているわけです。わたしたちにとって、恐れや不安を引き起こすものとして、この世の終わりというものが語られている。
 つまり、わたしたちも含め人間というものは、終わりというものを恐ろしいものであると、終わりは、その言葉の通り「終わり」であるとどこかそう思っているわけです。こういった感覚を今日の聖書にある「万物の終わりが迫っています」という言葉の「終わり」にも当てはめてしまっているわけなんですね。

 「終わり」というものは、物事がよくない方向に進んで行き最後の最後にやってくるものなんだ、もうどうにもならなくなった最後に待ち構えているものなんだ、どんな状況にあったとしてもすべてをわたしたちから奪い去っていくものなんだ。それが終わりであり、わたしたちにとっては恐ろしい以外のなにものでもないものである、そういうわけなんです。したがって、わたしたちは「万物の終わりが迫っている」という言葉の意味をなかなか正しくとらえることが出来ないわけです。意識することが難しいわけです。わたしたちは万物の終わりが迫っていると聞いても、その切迫感を受け止めきれずにどこか遠いものに感じてしまっている。それと同時に終わりというものを、命の終わりですとか、物事の終わりという、最終的な到達点として、漠然とした不安や恐れや不快感をもってその終わりと言う言葉を受け止めてしまっているわけです。

 しかし、ここで告げられている万物の終わりはそういったものではないんだというわけです。この聖書に書かれている万物の終わり、神さまがわたしたちに示してくださった万物の終わり、それは救いの完成であるわけです。すべてのものの終わりというのは、すべてのものが滅びに向かい何もかもが終わるというその終わりではなく、むしろ救いがやって来る、救いが完成するということを示しているわけです。
 つまりこの万物の終わりが近づいているということ、そのことを感じるということは、その救いの完成がどなたによってわたしたちに知らされて、わたしたちにもたらされたのかということを思い起こすことであるわけです。それはわたしたちに「悔い改めよ、天の国は近づいた」とお語りくださり、十字架によってわたしたちの罪を贖ってくださり、復活によって死と滅びに打ち勝ってくださり、天に昇られ、聖霊を与えてくださることによって、教会を立ててくださり、わたしたち一人ひとりを神さまと出会わせてくださり、信仰を与えてくださった。主イエス・キリストというお方をただただ受け止めて、信じ、そのみ言葉と御心に生きることであるわけです、それがわたしたちの信じる、終わり、わたしたちが中々受け取ることのできない終わりを感じながら生きるということであるわけです。
 それはいつ終わりが来るんだろうと、また終わりが中々こないと言いながらびくびくしながら生きることでもないですし、どうぜ終わるんだから、最後は救われるんだから何もしなくてもいいでしょうと生きることでもない、「神さま明日にでも終末がやってきますように、どうぞこの地に終わりをもたらしてください」と願いながら生きるということでもない。
 救いの完成とは、イエスさまによってわたしたちに確かに約束され、イエスさまを信じ生きるものの先に確かに備えられているものです。つまりイエスさまの十字架と復活にすべて示されている。だからそのことを忘れずに、感謝しまた悔い改めつつ、与えられている一日いちにちを最善をもって生きていこうではないか。それが万物の終わりが迫っているわたしたちに与えられた、神さまと共に生きる人生であるわけです。

 そのように生きるよう召されているわたしたちに今日の聖書には多くの勧めが書かれているわけです。1つ目が「思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」です。物事をよく考え、判断し生きるよう聖書は言います。またこの「身を慎んで」と訳されている言葉は、もともとは「酔わない、酔っていない」という意味を持ちます。これはお酒に酔って、前後不覚になっているような人生を生きず、物事に対して責任を持って人生を生きていくということです。神さまが与えてくださったこの命を全うするために、生きる。神さまが与えてくださったこの命を引き受けさせていただくということであるわけです。救いの完成を待ち望みつつ生きるとは先ほども触れたように、今がどうでもよくなるということではない。むしろ神さまによって救いの完成が約束された人生を生きる今こそ大事なんです。
 昨日まで罪に生きてきた。今の今まで人を悲しませ、自分自身さえないがしろしにして生きてきた。そんなわたしたちでさえも、神さまによって今この瞬間から生き直すことが出来るのです。それが神さまの救いです。そこにわたしたちは生きる。そのためには祈りは欠かせない。だから「よく祈りなさい」と聖書はいうわけです。わたしたちはすべてにおいて神さまが御心を示してくださると信じ、神さまに祈りを捧げ、神さまと共に生きます。この祈りをささげる生活に生きるからこそ、わたしたちはよく考えて判断し、責任を持って、神さまに生きていくことができるわけです。

 そして次の勧めは8節の言葉になります「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」。聖書は万物の終わりが迫っている中で生きるわたしたちが何よりもまず初めにすることは、心を込めて愛し合うことなんだと言うんです。互いに真剣に愛し合う。愛し合うということは相手がいるということです。神さまだけを愛するということでなく、わたしたちが交わりを持つ一人として、また一人ひとりと愛し合う。わたしたちは一人では生きていないわけです。洗礼を受け救いに与りこの教会に連なるものとなったわたしたちは、ここで共に礼拝を守る一人ひとり、また遠方に住み、祈りに覚えながら生きる一人ひとりと神さまが与えてくださった交わりを持って生かされています。その交わりにおいて、何よりもまず互いに心を込めて真剣に愛し合うことが求められているのです。
 愛するということは難しいことです。それこそ終わりという言葉と似ていると思います。愛するというと、本当にその人のことを好きになってまさに愛する。パートナーを愛するように、子どもを愛するように、そういう世における、世において一般的に通用する「愛する」を思い浮かべるわけです。そうではないんです。愛するというのは、神さまに共に救われ、また同じ教会で生きるものとして、祈りあい時に支え合うということであるわけです。一人ひとりの健康を祈り、信仰が日々守られることを祈り、信仰が強められていくことを祈り、そして共に神さまと生きる人が新たに起こされていくことを祈り、共に礼拝を捧げていくということです。つまり、共に神さまに生きていくということです。
 わたしたちが心を込めて愛し合うこと、つまり、共に祈り礼拝を捧げていくことを、9節では「不平を言わずにもてなし合いなさい」と言い、10節の終わりでは「賜物を生かして互いに仕えなさい」と聖書は言い換えています。わたしたち、神さまに生きる者、また教会に生きる者とは、互いに愛し合って、もてなし合って、仕え合う、そういった交わりに生きる者であるわけです。なぜそのように生きるように聖書は勧めるのでしょうか。その答えは8節の終わりに示されています。「愛は多くの罪を覆うからです」

 教会の中だけでなく、わたしたちは様々な交わりの中に生きます。家族や、友人、職場、そういった交わりの中に生きると、どうしても目にしなくていけなくなるものがあります。それが罪であるわけです。他の人のそういった罪なる部分が目に入るようになる、それだけではない。自分自身のダメなところ、弱点、罪が浮き彫りになる。人と関わるということはそういうことであるわけです。相手の罪にも自分自身の罪にも気が付く。そしてかかわりが深くなればなるほどそれが強くなる。
 そのときわたしたちは罪を裁きます。人を裁きます。自分自身をも断罪するわけです。しかし聖書は言うわけです。愛は多くの罪を覆うんだ。わたしたちの愛が互いの罪を覆うようになるんだと言うんです。それは、相手の罪をなかったこと、あるいは見なかったことにすることではないわけです。また甘やかすということでもない。わたしたちの愛が相手の罪を覆うというのは、わたしたちが相手の罪を赦すということであるわけです。相手を愛する、それは神さまを信じる者と共に生きるということだ、また神さまの愛に、神さまの赦しに生きるということでもある。愛が罪を覆う。わたしたちの愛が互いの罪を覆う。それはつまりわたしたちは神さまの愛に覆われて生きているということであるわけです。教会の中には、わたしたち一人ひとりの罪、弱さ、欠けによって、様々なことが時に起こります。そのときわたしたちは互いに愛し合い、赦し合う中で、互いの弱さを支え合い、欠けを補い合っていくわけです。「不平を言わずにもてなし合い」、「賜物を生かして互いに仕え」ていくのです。それは神さまの愛によって、愛する独り子を十字架に付けてまで世を愛してくださった、その愛によってなされるわけです。

 そして10節、今年度の聖句にもなっているみ言葉です。イエスさまの十字架によって、わたしたちに神さまの愛が注がれているということが、恵みが与えられているということが明らかになったわけですが、その愛、恵みというのは、わたしたちそれぞれに異なる賜物が与えられているということにも表れているわけです。
 イエスさまの十字架による救いおいて、神の恵みは決定的に私たちに与えられたわけです。しかしその恵みは、私たちにそれぞれ異なる賜物が与えられているということにも現れているわけなんです。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」。賜物というのは特別な人に与えられている、そう神さまは言わないんです。神さまはわたしたち一人ひとりに賜物をきちんと与えてくださっているんだと言います。まずそれが目に見える形で生かされているとわかるのが、11節にあるように、語ることや奉仕することであるわけです。この教会に来てからわずかな時間ですけれども、沢山のみなさんの賜物を見ることがありました。本当に感謝です。教会は当たり前ですが一人では成り立ちません。一人ひとりの働きがあってこそ、一人ひとりが部分になってこそ、主の体なる教会として機能するわけです。そういった働きの賜物が一人ひとりに与えられています。そして聖書はこのように言います。「奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい」。わたしたちは自分の時間と心を割いて奉仕をするわけです。それは本当に尊いことであると思います。しかしそのようなわたしたちの奉仕の源にあるのは、わたしたちの力や持っているもの、わたしたちの努力ではないわけです。神さまが私たちに与えてくださっている力、神さまが恵みによって与えてくださっている賜物こそ、わたしたちの奉仕の源となるわけです。神さまが居なければ、わたしたちは神さまに奉仕することが出来ない。そのことに感謝したいと思います。
 で、賜物というと、やっぱりこういうことをみんな言いがちなんです。いや、わたしなんかに神さまが賜物をはたして与えてくれているんだろうか、ですとか、教会で皆が奉仕しているのを見ると、何も出来ない自分が申し訳なくなる、とか。わたしたちは、自分自身のダメなところをたくさん知っていますから、こんな人間のどこに賜物があるのだろうと思うことがあるかもしれません。奉仕をしていても、自分の想像していたレベルのことが出来ずに、自分は本当にだめだなぁと思ってしまうこともあるわけです。しかしですね、わたしたちは、この賜物だけは確かにすべての者に対して神さまが与えてくださっていると言える賜物があるんです。
 それは何かというと、神さまに礼拝を捧げるという賜物です。礼拝においてみ言葉に聞き、祈り、賛美をおささげするという、その賜物がわたしたち一人ひとりに与えられているんです。わたしたちは、共に礼拝する恵みに招かれています。そしてその恵みの中で、神さまから与えられた賜物を生かすわけです。この教会において生かす。礼拝を中心とする交わりの中で、賜物を生かしていく。この礼拝を捧げるにあたって、今、ひとりひとりの賜物が生かされているんです。
 この一人ひとりの賜物が生かされる恵みに、ここにいるみんなで感謝しながら歩んでいきたいと思うんです。礼拝において神さまは言われます。あなたの罪は赦され、あなたは確かに救われたのだ。それをここにいるあなたたちに宣言する。わたしたちは礼拝を捧げるたびその宣言を頂きます。そのたびに自らに与えられた恵みと賜物を思い起こすわけです。神さまと共に生き、兄弟姉妹と互いに愛し合い生きる喜びを頂くわけです。ただただ感謝をもってその恵みに与りたいと願います。

2025年4月27日主日説教