イースター礼拝説教 「復活は救い、希望、恵み、喜び」
聖書箇所:創世記 1:1~5、ローマ 6:3~11、マタイ 28:1~10
先週の日曜日は、棕櫚(しゅろ)の主日として礼拝を西部地区の各教会と一緒に、合同でお捧げしました。棕櫚の主日というのは、イエスさまが十字架にかけられ三日の後に復活される。今日共にお祝いするイースターの出来事の一週間前にエルサレムに入城した記念の日です。高津先生の説教にあったように、イエスさまがエルサレムに入場されるとき、人々は「ダビデの子にホサナ、主の名によって来られる方に祝福があるように。いと高きところにホサナ」と喜びの声を上げました。ナザレからやって来た預言者であるイエスさまがとうとうエルサレムにやって来た。数々の奇跡を起こし、人を生き返らせ、水をぶどう酒に変え、パンと魚によって五千人もの人々のおなかを満たし、神さまのことを皆に教えられ、赦しと救いと幸いを多くの人々に与えられたあのイエスさまが、とうとうエルサレムにやって来た。神の国がやってくる。ローマ帝国の支配から解放され、イエスさまが新しい王となり、イスラエルの民、神さまの従うものたちが力を振るい自由に生きることの出来る国がこの地に立てられるんだ。そう人々は多いに喜んだわけです。
しかしその喜び、希望はそう長続きしなかったわけです。神殿に入られたイエスさまは、神殿から商人たちを追いだし、そして人々に神さまの教えを説かれました。そのふるまいや説かれる新しい教えは、今まで神殿で力を振るい、教えを説き、尊敬の眼差しを集めていた祭司たちやファリサイ派の人々、律法学者たちにとって不愉快なものでしかなかった。またイエスさまがお話になられた今までの律法に生きることを捨て、新しい律法であるイエスさまに従う、このイエスさまの言葉を理解することが出来なかった人々も多くいました。
彼らはイエスさまを恐れるようになります。それは信じるものの恐れではなく、ただ自分自身が積み上げきたものが奪われるということを恐れでした。祭司たちや律法学者たちは今まで築き上げてきた地位や名誉が新しい預言者であるイエスさまによって奪われてしまうことを恐れました。今までのように人々がわたしたちを尊敬の眼差しを向け、先生、また祭司様と呼ぶことを止めてしまう。イエスさまを信じてわたしたちの説く教えから離れて行ってしまう。また同じようにファリサイ派の人々や、多くのエルサレムに住む人々も恐れを覚えました。今まで一生懸命に律法を守り、礼拝において焼き尽くす捧げものを捧げることで罪が赦され救われると信じていたその信仰が、イエスさまによって根底からひっくり返されてしまうことがとても恐ろしかった。今まで信じてきたことはなんだったのか、今まで行ってきたことをこの預言者は否定するのか。自らを神さまの子を自称し、私たちの信じる神さまを父と呼ぶこの男は、果たして本当に救い主であり、また神の子であり、王となるべきダビデの子、真の預言者なのだろうか。
このようにして人々は疑いを深めていきます。そしてついにはイエスさまを否定し始めるのです。最終的には、律法の解釈をめぐり対立していたファリサイ派の人々や、十二弟子の一人であるユダの裏切りによってイエスさまは捕えられてしまいます。そこにあるのはまさに人間の罪、人間の悪意でした。わたしたち人間というものは、自分の思い描く希望、救いを求めます。それだけでなく、その希望が人間の思いによる身勝手なもの、神さまの御心にないものであるということを示されても、なおそれにしがみつこうとする生き物であるわけです。その罪はイエスさまを十字架につけるにまで至るわけです。 彼らはイエスさまが裁判にかけられている場において、口々に言いました。総督であり裁判官であるポンテオ・ピラトに向かってこう叫んだのです。メシアと勝手に名乗る、このイエスという偽物を十字架につけて殺せと。
イエスさまが十字架刑に処せられることが決まったとき、人間たちは大いに喜びました。イエスさまを嘲りました。十字架にかけられたイエスさまを見て「ユダヤ人の王万歳」と叫びました。また「神殿を打ち倒し、三日で立てる者、神の子なら、自分を救ってみろ、そして十字架から降りてこい」、「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう。神に頼っているが、神の御心なら、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」そのように、真の神の子に向かって言ったのです。
わたしたちは思います。救いというものは、自分をまず救うものでなければならない。自分の悩み、苦しみ、思い煩いが、一番はじめに解放されて、一番はじめに神さまによる救い、恵みに与りたい。他のひとは後。まずは自分。まず自分が生きなければ、相手のことなど考えられるはずもない。
これはある意味、本当のことだと思います。わたしたちは自分のこころやからだがまずある程度、健康であると思うことができないと、人にポジティブに向かいあうことが出来ないものです。自分の喉がカラカラに乾いているのに、他の人の喉を潤すことを優先する。極限になるまで飢えているにも関わらず、他の人に分け与える。例えばその相手が自分の家族、子ども、友人、大切な人であるならば、それは出来るかもしれません。しかしそれは自分の救いを出るものではない。自分の大事に思っている人が救いにあずかることは、自分を慰めることになるからです。本当に見ず知らずの人、さらに言えば、自分の嫌いな人、苦手なひと、そういった人々に対して、わたしたちは自分を差し出せるか。それが当たり前のように差し出せるのか。本当の意味で、神さまが求めるように隣人を愛し、生きていくことが出来るのか。
だからわたしたち人間は、聖書にあるように言うわけです。イエスよ、おまえは他人こそ救えるのに肝心要の自分を救えない。自分のことを救えない神を、このわたし自身を救うことの出来ない救いを、どうして受け入れることが出来るだろうか。自分を救わない救いなど、必要ない。
そのような罪の果てに、自分自身の取り分が損なわれる、自由が奪われる、名誉を失う、やりたいことが出来なくなる、そういった恐れの果てに、欲望の果てに、十字架は立ったのです。主イエス・キリストの十字架がわたしたちの奥深くに立った。わたしたちという存在の中に立った。
イエスさまは、今わの際大声で叫びます。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。このように叫びイエスさまは息を引き取られます。本来であればこのイエスさまの叫びは、わたしたちの叫びであったものです。自分が救われることを望み、いや、自分自身こそがまず救われ、生きるべき存在なんだということを望む、そうでないと生きることが出来ない弱さに生きるわたしたちが、最後裁きの時、神の御前に立たされ、自分自身の罪を全て白日の下にさらされて判決を言い渡されたその時に、上げなくてはいけなかった叫びであるわけです。このような神さまの裁きをイエスさまは受けられました。わたしたちの罪を全て背負って、わたしたちの代わりにイエスさまは叫んでくださったのです。神さまから見捨てられて、死に引き渡されるという裁きを受けてくださったのです。イエスさまはそのためにこの地に来られました。
人々は言いました「神の御心なら、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」。わたしたちは根本的な間違いを犯しているわけです。罪によってわたしたちは神さまから離れ、神さまの御心が見えない状態にされてしまっています。神さまの御心こそ、イエスさまの十字架であるわけです。杯を取りのけてくださいと、父なる神さまが愛してやまない独り子が捧げた祈りを退けてまで示された御心こそ、イエスさまの十字架なのです。罪の力に引き寄せられ、死と滅びを時に積極的に受け入れて生きざるを得ないわたしたちが、それでも神さまの愛と、恵みと、救いと希望とに生きるため、イエスさまは十字架におかかりになってくださったのです。わたしたちが生きているのは、その愛、恵み、救い、希望の中、この中に生きているわけです。そして、神さまが与えてくださった愛と、恵みと、救いと、希望の御業はこのイエスさまの十字架だけでは終わらないのです。
十字架の上で、わたしたちの代わりに神さまから見捨てられるという裁きを受け、命を捧げられたイエスさまは墓へと葬られます。そして墓には番兵が立てられました。なぜ立てられたか、それはイエスさまの受難予告にあったように、三日目にイエスさまが復活されるということをイエスさまご自身が予告していたからです。もし墓から確かに死んだはずのイエスさまの遺体が消えてしまったとするなら、弟子たちやイエスさまを信じていたものたちが大騒ぎになるに違いない。イエスさまを死に追いやったものたちは、またもイエスさまによって自分たちの立場が危うくなることを恐れて、ピラトに進言するわけです。そしてその進言どおり、墓には番兵が立てられました。
週の初めの日の朝のことでした。ユダヤ教で言う安息日が終わり新しい週の初めの日、マグダラのマリア、そして小ヤコブとヨセの母であるマリアが墓に行くと、大きな地震が墓を襲いました。それは天の御使いが、墓をふさいでいた大きな石を転がしたからでした。
御使いは言います。「『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい』それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました」イエスさまは復活された。もうここにはイエスさまはおられない。そのように御使いは言ったわけです。
これらを見た人々はみな恐れました。御使いと出会った二人のマリア、そして番兵たち、どちらも、ただ恐れるしかなかった。さらに御使いの言葉を聞いて弟子たちに急いでイエスさまの復活を告げる婦人たちは、喜びにあふれ、それでも恐れたと言います。人間はさまざまなことに恐れるものであるということがここに表れています。イエスさまを恐れ、また御使いたちが表れた出来事にも恐れ、そしてイエスさまが復活されたという事実にも恐れを抱きます。婦人たちは御使いに出会っても、一旦死んだ者が甦ったということを信じ切ることは出来ませんでした。自分たちが信じ従ってきたイエスさまが十字架の上で殺されてしまった。そういった恐ろしい出来事を経験しました。そしてそのことによって、もうすべてが終わってしまったと多くの人たちが思い、イエスさまと同じように弟子たちも十字架にかけられることを恐れた。そして死んでしまったはずのイエスさまが甦り、御使いによって空の墓が暴かれた。すべてが恐ろしかった。わたしたちの考え、常識、経験の限界を超えた出来事に、わたしたちは恐れおののくしかない。
しかし、死に打ち勝って神さまによって復活させられたイエスさまは、その恐れを取り去るためにわたしたちに語りかけます。弟子たちに墓で起きた出来事を伝えに行く途中でイエスさまは二人のマリアを待っておられたのです。イエスさまはこのように言われます。「おはよう。」、「恐れてはならない。神がなさる救いを見なさい。」
神さまはわたしたちの恐れを、不安を、失望を、喜びへと、安心へと、希望へと変えてくださる御方です。聖書は神さまが確かにわたしたちを愛していて下さり、希望を与え、恵みの、喜びの日々を与えてくださっていると信じることが出来るように、わたしたちにおはようと呼びかけてくださっていると言うのです。イエスさまは言います。わたしは確かに目覚めた。神さまがなさる救いによって、神さまの御心の通りに確かに死からよみがえった。わたしたちは恐れます。また時にそんなことがあるわけないと自分たちが納得の出来る仕方で、このイエスさまの十字架と復活、そしてわたしたちのうちにある罪を見つめます。しかしそうではないのです。わたしたちの想像を、考えをはるかに超えた救いがここにある。神さまを信じることによって、神さまが備えられたイエスさまの十字架と復活という御業を信じることによって、神さまはわたしたちを確かに罪から、そして罪によって定められた死と滅びから、それらが引き起こす恐れから、救い出してくださったのです。神さまはわたしたちから死と滅びを取り除き、復活の恵みと永遠の命とを与えてくださった。
永遠の命とは、わたしたちの肉体がたとえ一度の死によってこの世から取り去られても、もう一度神さまによって復活させていただき、神さまと共に歩む喜びのうちに生きることが出来るということです。わたしたちキリスト者はこの救いに確信をもって生かされている喜びがある。このことを信じて生かされているという喜びがある。この十字架と復活を信じているからこそ、この世の人生を恐れずに希望と感謝をもって生き抜くことが出来る喜びがある。
わたしたちはイエスさまが甦られた週の初めの朝、つまり今日、この日曜日に礼拝を捧げる恵みに与ることが許されています。それはわたしたちが救われている。わたしたちには永遠の命の約束が与えられている。そしてそのためにイエスさまが十字架にかかり復活された。これらのことを思い起こすためです。何度も、何度もでも、イエスさまはわたしたちにおはようと言ってくださるのです。
イースター、おめでとうございます。主に感謝を捧げます。この喜びを、この恵みを、この感謝を、共に分かち合いつつ、味わいつつ、祈りを捧げたいと思います。
2025年4月20日主日説教
