主日礼拝「人に仕えし人の子」
聖書箇所:創世記 25:29~34、ローマ 8:1~11、マタイ 20:20~28
マタイによる福音書は20章の17節から、イエスさまがエルサレムへ、もっと言うならいよいよ十字架の死へと向かわれる。そういう場面に入っていくわけです。イエスさまは今日お読みした箇所の少し前、17節から19節の部分で、十二弟子を呼び集めてこのように言われました。
「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」
このようなイエスさまのいわゆる「受難予告」は、これで3度目になります。1度目は16章、フィリポ・カイサリア地方においてペトロの信仰告白の後に。また2度目は17章、イエスさま一行がガリラヤに集まった時に。この2度目の受難予告の時にイエスさまは「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺されるが、三日目に復活する。」わたしは確かに死ぬことになっているんだと弟子たちに語り、弟子たちはそれを聞き非常に悲しんだ。そう聖書には書かれているんです。
しかし、今回の受難予告は少し様子が違うようです。イエスさまが3度目の受難予告をされると、すぐにゼベダイの息子たちの母親が、息子であるヤコブとヨハネを連れ、イエスさまの元へとやって来たと言うんです。そしてひれ伏して何かを願おうとした。
ここで突然ゼベダイの息子たちの母親が登場するんですが、これは特段おかしなことではありません。イエスさまと共にいる弟子は十二弟子たちのほかにも大勢いました。その中には女性たちの弟子の集団もあり、その中心的な存在として、マグダラのマリアやイエスさまの母であるマリア、そしてここで登場するゼベダイの息子たちの母がいたわけです。大工と漁師の母親たちがですね、イエスさま一行の切り盛りをしていたわけです。そしてその中にいたゼベダイの息子たちの母親が、息子2人を連れてイエスさまの前に来てひれ伏し、イエスさまにお願いをした。そういうことなんです。
イエスさまは3人に向かって言われます。「何が望みか。」こういった望みでした。母親は言います。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」彼女の願いはこういったものでした。イエスさまが王として即位される時には、ここにいる息子たち、ヤコブとヨハネをイエスさまの次に高い地位につかせてほしい。そう言ったのです。この言葉はどうやら息子たちの将来を案じた母親の「イエスさま、どうかこの息子たちの面倒を最後まで見てくださらないでしょうか」という思いから出てきた言葉ではないようです。母親はあえてイエスさまの右と左に座る者として欲しい、イエスさまの次に高い地位につかせて欲しい、そう願いを伝えた。つまり、「わたしたちは他の弟子たちよりもイエスさまのもとで長い時間熱心に仕えてきました。だからイエスさま、あなたが王になるときには、わたしたちがその次の立場になる。そうですよね?わたしたちはその立場になるに相応しいものですよね?」そういったことをゼベダイの母親は言いたいわけなんです。そういった自負と思いを持って、母親たち3人はイエスさまの元へと来た。
イエスさまは弟子たちに、わたしは十字架につけられて死に、三日後に復活するという受難予告をされました。普通に考えれば、お従いしている先生が捕らえられ死刑になるとなれば、それこそ悲しい、そうなって欲しくないと思うはずです。確かに2回目の時はそのように弟子たちは悲しんだ。しかし、今回はそうではなく受難予告を受けて、イエスさまは王になるんだと弟子たちは思った。そういった思いが今回のゼベダイの母親たちの行動に表れている。
これはどういうことなのか。この時のユダヤの人々や弟子たちの間では、このような考えが広まり信じられていたとあります。「神の国は救い主、メシアが死ぬことによってやって来る」。
つまり主なる神さまの御支配がこの地上にやって来るには、救い主、メシアと呼ばれるものの死が不可欠である。そう信じられていたのです。したがって今回のイエスさまの受難予告を、彼ら弟子たちは神の国の到来の前触れだと受け止めたわけなんです。しかも救い主であるイエスさまが死に引き渡されても三日後に復活してくださる。そのように理解した。神の国が到来し、その神の国を到来させた救い主であるイエスさまが死から復活し神の国の王となる。それはとても喜ばしいことではないか。そう思ったわけです。
こういった神の国に対する考えを受けて弟子たちは、イエスさまが十字架に向かうこと、この地でとらえられ、侮辱され、鞭うたれ、十字架の上で息を引き取るということが、言ってしまえばどうでもよくなってしまった。弟子たちは、イエスさまの十字架、そして復活の先にある栄光の神の国でどのように生きるのかということだけを考えはじめた。それが今日のゼベダイの息子たちと母親の、神の国の王であるイエスさまの次に偉いものとなりたいという願いにつながってしまうわけなんです。
しかし神の国というものは、彼らの思い描くようなものではないわけです。そしてもちろん、イエスさまの十字架と復活も、弟子たちが考える神の国を到来させるきっかけという、そんな簡単なものではない。イエスさまご自身は十字架というものが何かをすべてご存知でその道を歩まれます。イエスさまはわたしたち人間の罪を代わりに負い、神さまから見捨てられるという何よりも恐ろしく悲しい、苦しみを、裁きをわたしたちの代わりにその身に受けてくださった。そのことを思い、イエスさまの十字架と復活を、自らの罪とそれでも与えられている罪の赦しと感謝と希望をもって受け止めなければ、神の国、神さまの御支配を正しく受け入れることなど出来ないわけです。
したがって、イエスさまはこのようにゼベダイの息子たちと母親に向かってこのように言うわけです。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。」
神の国とはあなたがたの考えているようなものではない。神さまの救いとはあなたがたの考えるような、人間的な栄光、地位や名誉を与え、保証するようなものではないのだというわけです。そして、イエスさまはこのように続けます。「このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」
イエスさまが飲もうとしておられる杯というのは、まさに苦しみ、裁きの杯であるわけです。十字架にかけられる前の晩、イエスさまはゲッセマネの園で祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」。
この杯はイエスさまでさえ、過ぎ去らせて欲しいと願い祈った杯であるわけです。その苦しみと死の杯を共に飲むことができるかという問いに、ヤコブとヨハネはためらうことなく「できます」と答えました。イエスさまはそれを受け、このように言われます。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」
このイエスさまの言葉には2つの意味があります。1つはゼベダイの息子たちは、確かに信仰を貫き通すものとされた。しかし、そこには苦しみ、痛みが伴ったんだということです。ヤコブは使徒言行録にあるように使徒たちの中の最初の殉教者となり、ヨハネはペトロと共に迫害を受け、最後はパトモス島という島に流されることになる。イエスさまと共に歩むゆえに救いにあずかり恵みを頂いた。しかし、そこには迫害による長い苦難の道があったわけです。
そしてもう1つは、そのように杯を飲む、苦難の道を歩む者となったからと言って、神の国においての地位が確約されるのかと言ったら、そうではないんだということです。神さまの国とはまさにイエスさまの父なる、創造主なる神さまがご支配のうちに置かれるところ、すべては父なる神さまによってすべてが定められるところであるわけです。イエスさまの右と左に誰が座るのか、それは父なる神さまが決めることであって、わたしたちの側が何をしたからと言って神さまはそれに左右されることはないし、わたしたちの側が関知することではないのだ。イエスさまはそう言うのです。神の国において何が起き、何がなされ、どのような救いがもたらされるのか、それは我々人間が決定し、神さまに訴えかけることの出来るものではない。だから、すべては父なる神さまにお委ねするしかない。
すべてを主なる神さまに委ねる。それだけで今日の話は終わらないわけです。このイエスさまとゼベダイの息子たちと母親とのやりとりの後、他の10人の弟子たちが出てきます。彼らはゼベダイの兄弟、母親とのやりとりに腹を立てたと言うんです。ここでひとつのことがわかります。それは他の弟子たちもゼベダイの息子たちと似たような思い、願いを持っていたということです。もし違う考えや願い、イエスさまの受難予告への理解があったなら、彼ら親子に対して怒りの感情をむけることはないわけです。しかし彼らはこう思った。ずるい。やられた。出し抜かれた。自分たちもチャンスを探っていたところに、先に売り込まれた。
みんなイエスさまの次に偉いものになりたい。神の国、神さまの救いを、それくらいのものだと考えていた。自分の欲望を満たし、自分自身を満足させるものであると考えていた。もっと言えば、神の国で偉くなれば、他の人を支配できると思っていた。イエスさまの力を借りて、自分たちのやりたいことをやりたいようにする、それこそが救いなんだ。誰かの上に立つことで、自分という存在は救われるんだ。そう思っていたわけです。それが見事にここであらわになったわけです。
確かにその救いを求める姿勢には真剣なものがありました。ヤコブもヨハネも、イエスさまがわたしが飲もうとしている杯を飲むことが出来るかという問いに「出来る」とためらいなく即答しています。そのような真剣さを他の10人の弟子たちも同じように持っていたはずです。しかしその真剣さというものは、自分の身を案じ、自分の行く末を心配すること、自分がどのようなものとなるのかという範囲に留まっているものであるわけです。他のものたちのことなどは顧みられていない。他の人々を心に掛ける余裕などない。わたしたちの考える救いなんてものは、非常に狭く、小さいものです。わたしが、わたしの家族が、わたしと仲のいい人が、わたしの好きな人が、救われれば、良い思いが出来れば、それでいい。そんなものでしかない。
そのような弟子たちにイエスさまは語り掛けられます。25節からの言葉です。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」
イエスさまはこのように言われます。究極的には、自分のことしか考えない、自分の将来だけ心配する、自分の安定だけを欲する。自分だけ良い思いをするために、他の人がどんなに苦しんでも構わない。人を支配することで、自分の思いを満たす。そういったわたしたちに対して、イエスさまは言います。「皆に仕える者になりなさい」。
この「仕える者」という言葉は「給仕する者」という意味です。食卓について真っ先に自分が食事にありつくのではなく、まず他の人たちの食事を世話する。そういうものであれとイエスさまは言います。そして皆の僕という言葉の僕とは「奴隷」と訳すこともできる言葉であるわけです。皆に仕えるものとなるのだ、僕となるのだ、奴隷となるのだ。
イエスさまはわたしたちに何を求めておられるのか。そこに、イエスさまご自身のその歩みが、またイエスさまが弟子たちに語られた「人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して、異邦人に引き渡す。人の子を侮辱し、鞭打ち、十字架につけるためである。そして、人の子は三日目に復活する。」という受難予告の言葉が浮かび上がってくるわけなんです。
イエスさまは言われます。「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」イエスさまはご自身のことをわたしたちに仕えるために来たものであると言われます。人の上に立つものでなく、人に仕えるため、また人間の罪を背負い、自分の命を捧げるためにやって来たと言うんです。わたしたちの救いのために十字架の上で死に、そしてその死に勝利し、復活するためにわたしはやってきた。その十字架と復活を信じるものには復活と永遠の命が与えられる。この救いをあなたたちに与えるためにわたしはやって来たのだと、そう言うのです。自分自身のことばかりを考え、自分自身のことに思い煩い生きているわたしたちに、イエスさまはこう言われます。「わたしはあなたのために自分の命を献げる。あなたの救いをこのわたしの命に代えて約束する。この十字架の死と復活の命によってあなたを救うことを約束する。だから、あなたはもう自分が救われるために心配し思い煩う必要はない。自分が救われるために願い、祈り、また時にねたみ、羨み、人を攻撃し、罪を犯す。そういったことはもうしなくていい。あなたは、他の人のことを考えて祈り、生きるんだ。」
わたしたちはすぐに生きるすべてを自分に向けてしまいます。自分の人生をいかにして充実させるか、自分の生きる意味をいかにして見出し、実現させるか。そのようにして自分のことだけを求めます。しかしそのような人生を生きるわたしたちにイエスさまは出会ってくださいました。わたしたち一人ひとりの罪を確かに十字架の上で負ってくださり、わたしだけが救われる人生ではなく、ここにいるすべての人が救われる人生へと導いてくださいました。本当にありがたいことだと思います。
人に仕えるというのは、別に誰かの奴隷になって虐げられ生きるということではありません。共にみ言葉に聞き、祈り、賛美し、礼拝を捧げて生きるということです。わたしたち自身がもうすでに救われたものとして、また救いに導かれているものとして生かされているという喜びに共に生きるということです。新しい年度の歩みが始まります。共に祈り、神さまの言葉に聞き、礼拝を捧げ、歩んでまいりましょう。いつもこの口が、感謝と悔い改めと賛美に、神さまのことに満ちあふれていきますように、共に祈りを捧げたいと思います。
2025年4月6日主日説教
