信仰とは
『信仰は体と生活で信じ告白していかなくてはならないものである』と「キリスト教―その問と答」は始めます。
これはどういう意味かというと、わたしたちの信仰生活、神さまを信じて一日いちにちを生きていくことというのは、2つの大事な要素で成り立っているんだと言っているわけなんです。
その2つの大事な要素とは何かというと、最初の文章にある「体と生活で信じること」と「告白すること」。この2つであるわけです。
体と生活で信じる
1つ目に挙げた「体と生活で信じること」。これは具体的に言うなら、礼拝に行くことや、祈祷会、教会で行われている集会に参加すること、聖書を読むこと、祈ること、神さまについて書かれた本を読んでみることなどが挙げられると思います。神さまを信じ生きていくということを告白した人は、神さまに救われた感謝を心や告白といった言葉だけでなく、生活にその信仰の態度が現されていくものだということなんです。この本では「実存的(実際的、現実的、確かにあるもの)な側面」と言い表しています。
それはつまり、いくら「わたしは神さまを信じていますよ」と口にしたとしても、実際の生活がその「信じている」という言葉とかけ離れたものであるとするならば、それは信じていると言えるのか?と問われてしまうのだということであるわけです。
もちろん、信じていると神さまの前で告白し一生懸命に神さまと生きようとして、わからないことや出来ないことがあった、結果としてそうなってしまったというのは上のケースには当てはまりません。また、日々やむを得ない事情で病床にあるとか、忙しい時を過ごしているため、教会に中々行くことができない、聖書を読むことが出来ないという方もおられると思います。(それでも神さまの御前において「自身の最善を尽くす信仰をもって生活する」ということはとても大事なことだとわたし自身は考えます。これはいつかどこかで話すことがあるかもしれません)。そういった方々に対し「あなたは全くちゃんとした信仰生活を送れているのか自分の胸に聞いてみなさい!」とかなんとか言って怒りたいのではまったくないんです。
では何が言いたいのか。それは、いかなる人生の途上にあったとしても、それでも神さまに救われて生きる者として、その救われた体と人生を持ってして、神さまに生きることがとても大切ではないだろうか。ということです。
なぜなら、わたしたちは救われた事実を礼拝で語られるみ言葉によって、そして聖餐によって確かにしていただく必要があるからです。教会から離れ、礼拝をささげず、聖餐に与ることなく、聖書を読まず、祈ることを忘れてしまうなら、やはりわたしたちはキリスト者であるということを忘れて行ってしまう、救われたあの瞬間の感動と感謝が色褪せていってしまうものなのです。わたしたちにはいつも日毎の糧が必要です。それはもちろんごはんやごはんを食べるための経済力もそうですが、なによりも「神さまの御言葉」が生きる糧になるのです。わたしたちはごはんを食べるだけで満たされるのではなく、神さまの言葉をいただき、祈り、賛美し、礼拝を捧げ、愛する教会の兄弟姉妹と交わることによって満たされるものに既に神さまによって変えられているのです。したがって「体と生活で信じること」というのは信仰生活において欠かせない一つの大事な要素であるわけです。
告白すること
そして2つ目に大事な要素とは「告白すること」です。
わたしたちは礼拝の中で「信仰告白」を言い表します。信仰告白とはなにかというと、名前の通り信仰を告白しているわけです(まんまや)。つまり「わたしたちが一体どなたを信じていて、そのお方がどういったことをされたゆえに、わたしたちがこうなった。そしてこうなっていくだろう。それをわたしたちは信じている」ということを言い表しているということです。
この告白は、まぁ最初はよくわからないと思います。(いや、わたしはわかってます、一緒にしないでくださいと言う方は本当にすみません。わたし(ここの牧師)は全然意味をわかっておりませんでした。神学校に行って「そっかそういうことなんだなぁ…」なんて思ったくらいです。ほんとねぇ。神さま神学校にわたしを導いてくださって本当に感謝です、と祈ってみたり…。)
でも、このいつも礼拝で告白している事柄がとても大事なことなんです。なぜ大事なのか。それは、少し上で説明したように、信仰告白の内容がわたしたちが信じている事柄の全てを言い表しているからです。つまり、いつも口にしている信仰告白がどんな意味かをしっかり学び、理解し、把握することはわたしたちの信仰生活を確かに助けるものとなるのです。
具体的に言うなら、わたしたちは何を信じ、そして信じていないのかを区別することが可能になるということです。キリスト教の長い長い歴史の中で、教会には様々な宗教が入り込んだり、キリスト教の内部から新しく様々な考えや信仰が現れて対立を生んだりしました。その時に大切になるのがこの「告白すること」です。この本では「教理的な側面」と言い表しています。
この教理的な側面を学ぶことは信仰生活においてとても大事です。今言ったように、自分たちが何を信じているかをちゃんと言葉にして理解することによって、その理解が「体と生活で信じること」に反映されていきます。そして深められた体と生活で信じることがまた同じように「告白すること」が確かにそうであったという確信を与え、さらに確かな告白を行いたいという思いに導かれていくのです。
つまり学ぶことによって神さまのことをもっと深く知ることが出来、その喜びが実際の信仰生活に表れ、さらにその喜びによって、もっと神さまのことを知りたい!となっていくという最高かつ最強の恵みの無限ループが完成するわけです!(まぁ、とはいっても中々完成しないですし、ループが何回かしたら途切れてしまうのがわたしたち人なんですけれども…)
このようにして信仰生活における2つの大事な要素「体と生活で信じること」と「告白すること」は密接な関係を持っています。そしてこの2つの両輪が連動することによって恵みと喜びに満ちた信仰生活が与えられ、この信仰生活が伝道へと続いていくということなんです。
つまり、知ることと神さまに生きることが良い関係になると、「うわー神さまってマジすっげぇ!」となって「この喜び、このヤバさを誰かに伝えなければ!」となっていくわけです。わたしたちはやっぱり神さまに生きているものですから、神さまのことを深く知ることが喜びになりますし、神さまに礼拝を捧げることがやっぱり喜びになるわけです。そしてそこで新しく神さまと出会う人がおこされ、そのためにわたしたちが用いられるなら、これ以上ない喜びになるわけです。
ということで長くなってしまいました。(なんとこの部分は本文だとまだ5行しか進んでいない…)次回もまたこの序文を読みすすめていきたいと思います。
(次回に続く…)
